人物

松平定信

Matsudaira Sadanobu
AD1759年1月15日 – AD1829年6月14日(享年70)
江戸幕府重要度 4

概要

吉宗の孫、田安宗武の子。将軍候補だったのを、田沼が白河松平に養子に出した、と本人は思っていた。白河で天明の飢饉に一人も餓死者を出さなかった。老中首座、寛政の改革。「白河の清きに」。尊号事件で家斉と対立して辞めた。『花月草紙』『宇下人言』。楽翁。

関わったできごと(1)

寛政の改革AD1787年(天明7年) · 老中首座

本文

1759年、江戸の田安家の屋敷で生まれた。父の田安宗武は8代将軍徳川吉宗の次男で、田安家は将軍の跡継ぎが絶えたときに備えて置かれた御三卿の一つである。定信は七男で、母は側室だった。幼いころから聡明で知られ、10代で和歌や漢文を書き、自らを律することに厳しい少年だった。

松平定信の肖像
松平定信の肖像Wikimedia Commons 松平定信(自画像) · Public domain

1774年、16歳で陸奥白河藩主の松平定邦の養子に出された。同じ年、田安家を継いでいた兄が若くして亡くなり、田安家には当主がいなくなった。定信が残っていれば田安家を継ぎ、やがて将軍の候補にもなりえた。定信は、この養子縁組を老中田沼意次と一橋家の企みだと信じた。実際、のちに11代将軍になったのは一橋家の家斉である。定信は自伝の中で、田沼への憎しみを隠していない。

1783年、白河藩の家督を継いだ。藩主になったその年、東北を大凶作が襲った。浅間山の噴火も重なって、のちに天明の飢饉と呼ばれる惨事になる(天明の飢饉)。東北の諸藩では多くの餓死者が出たが、定信は他国から米を買い集め、倹約を命じて藩内に配り、白河藩から餓死者を出さなかったと伝えられる。この評判が、若い定信の名を広めた。

天明の飢饉に関わる図版:Great Tenmei Famine Map Artwork
天明の飢饉Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その頃、江戸では田沼意次が商業の力を使った政治を進めていた(田沼時代)。株仲間を認めて税を取り、蝦夷地の開発や印旛沼の干拓を計画した。だが賄賂が横行したと見られ、飢饉と打ちこわしが重なると田沼への反感は一気に高まった。1786年、田沼を支えた10代将軍家治が亡くなると田沼は失脚した。翌1787年6月、定信は御三家などの後押しを受けて老中首座になった。満28歳。将軍家斉はまだ15歳だった。

定信が進めた改革を寛政の改革と呼ぶ(寛政の改革)。手本は祖父吉宗の享保の改革だった。まず徹底した倹約を命じ、大奥の費用まで切り詰めた。飢饉に備えて大名に米を蓄えさせ(囲米)、江戸の町には町の費用を節約させてその7割を積み立てさせ、困窮した人の救済に充てた(七分積金)。旗本や御家人が札差から借りた金のうち古いものを帳消しにさせた(棄捐令)。江戸に流れ込んだ農民には旅費を与えて村に帰るよう促した。石川島には人足寄場を設け、行き場のない無宿人に技術を身につけさせた。

寛政の改革に関わる図版:Emperor Kōkaku
寛政の改革Wikimedia Commons Toyooka Harusuke · Public domain

思想と出版にも手を入れた。1790年、朱子学を幕府の正しい学問とし、林家の学問所でほかの学派を教えることを禁じた(寛政異学の禁)。風俗を乱すとして、黄表紙や洒落本の作者や版元を罰した。山東京伝は手鎖の刑を受け、版元の蔦屋重三郎は財産の半分を取り上げられた。海の守りを論じた林子平の『海国兵談』も、人心を惑わすとして版木を没収された。

ところがまさにそのとき、北の海で林子平の心配が現実になった。1792年、ロシアの使節ラクスマンが漂流民の大黒屋光太夫らを送り届けて根室に来航し、通商を求めた。定信は、国法では外国との交渉は長崎でしか行わないと伝えさせ、長崎へ入るための許可証(信牌)を渡して帰らせた。そのうえで江戸湾の沿岸を自ら見て回り、海の守りの計画を立てた。

改革は人々に息苦しさももたらした。白河の水が清すぎて魚が住めず、元の濁った田沼が恋しい、という狂歌が出回ったのはこの頃である。定信の失脚を決定づけたのは尊号一件と呼ばれる出来事だった。光格天皇が実の父に太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとしたのを、定信は皇位についていない者にその称号はふさわしくないとして退けた。将軍家斉も実の父の一橋治済を大御所として迎えたいと望んでいたが、定信は同じ理屈でこれも認めなかった。1793年7月、定信は老中を辞めさせられた。6年だった。

白河に戻った定信は、藩の政治に力を注いだ。1801年に造った南湖は、身分にかかわりなく人々が楽しめる場所として開かれ、日本で最も古い公園の一つと言われる。古い書画や器物、武具を全国から調べ上げて図録にした『集古十種』は、文化財の記録として今も価値がある。1812年に隠居して楽翁と号し、随筆『花月草紙』や、自分の名の字を分解して題にした自伝『宇下人言』を書いた。

1829年、江戸の大火で屋敷を焼かれ、まもなく亡くなった。満70歳だった。定信の改革は短く、人気もなかった。それでも、七分積金の積立金は幕末まで残って江戸の町の救済に使われ、明治になってからは東京府に引き継がれ、困窮者を収容する養育院や、のちの一橋大学につながる商法講習所などの元手にもなった。祖父をまね、田沼を憎み、清さを求めすぎた政治家が残したものは、思いのほか長く生きた。

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