西郷隆盛
概要
薩長同盟を結び、討幕軍を率いた。維新後は新政府に背き、西南戦争で死ぬ。
所属
薩摩藩関わったできごと(5)
薩長同盟1866年3月7日(慶応2年1月21日) · 薩摩側王政復古の大号令1868年1月3日(慶応3年12月9日) · 主導鳥羽・伏見の戦い1868年1月27日(慶応4年1月3日) · 新政府側江戸無血開城1868年5月3日(慶応4年4月11日) · 新政府側西南戦争1877年 · 首領本文
1828年、薩摩藩の鹿児島城下、下加治屋町に生まれた。家は下級の藩士で、7人の兄弟姉妹と祖父母を抱え、暮らしは貧しかった。同じ町内には3歳下の大久保利通がいて、若者が集まって学ぶ「郷中」でともに育った。

13歳のとき、喧嘩の仲裁に入って刀で右腕を傷つけられ、刀を十分に握れなくなったといわれる。武芸の道をあきらめ、学問と禅に打ち込んだ。
下級藩士の出。18歳から10年ほど、農村の年貢を扱う役所の書記を務めた。重い年貢にあえぐ農民の姿を見て、藩に意見書を出している。1854年、藩主の島津斉彬に見出され、江戸へ供をした。

島津斉彬に見出されたが、その死後に二度島流しになっている。斉彬のもとでは庭の手入れをする役の名目で、実際は他藩の志士や公家との連絡役として働いた。水戸の藤田東湖、越前の橋本左内らと交わり、将軍の後継に一橋慶喜を立てる運動に奔走した。将軍家へ嫁ぐ天璋院篤姫の輿入れの準備にもかかわっている。
1858年、斉彬が急死した。続く安政の大獄で、ともに動いていた京都の僧の月照が幕府に追われ、西郷は彼を連れて薩摩へ逃げた。藩は保護を拒んだ。11月、二人は錦江湾の船から抱き合って海に身を投げた。月照は死に、西郷だけが引き上げられて息を吹き返した。

藩は西郷を死んだことにして、奄美大島に隠した。菊池源吾と名を変え、3年ほど島で暮らした。島の娘の愛加那と結婚し、子をもうけている。長男の菊次郎は、のちに京都市長になった。
1862年に呼び戻されたが、斉彬の異母弟で藩の実権を握った島津久光と衝突した。久光の上洛の計画を、田舎者には無理だと面と向かって言ったと伝えられる。命令に背いたとして、今度は罪人として徳之島、さらに沖永良部島へ流された。

沖永良部島では、屋根だけの牢に入れられた。壁の無い吹きさらしの牢で、雨風にさらされてやせ衰えたが、島の役人の計らいで囲いのある座敷牢に移される。島の子どもたちに読み書きを教え、書物を読んで過ごした。のちに好んで書いた「敬天愛人」の考えは、この頃に深まったといわれる。
戻ってからの数年で、薩長同盟と江戸開城を実現させた。1864年に赦されて戻ると、藩の軍を率いて、京に攻め上った長州を禁門の変で退けた。続く幕府の長州征討では、長州に寛大な条件で降伏させ、戦いを避けた。敵だった長州との関係はここから変わり、1866年、坂本龍馬の仲立ちで薩長同盟を結ぶ。

1867年の大政奉還の後、西郷は江戸で浪士たちに騒ぎを起こさせて幕府を挑発したとされ、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いの戦いにつながった。新政府軍の参謀として東へ攻め上る。
勝海舟との会談で総攻撃を止めたのは、軍を率いる側の判断としては異例になる。1868年3月、江戸総攻撃の予定の直前、幕府の勝海舟と江戸の薩摩藩邸で会い、徳川家の存続と江戸城の明け渡しの条件をまとめた。江戸無血開城で、100万の人が住む町は戦火を免れた。勝は後年、この会談で西郷は自分の言うことを一つも疑わなかった、と語っている。

維新の後はいったん鹿児島に帰ったが、1871年、藩をなくすための兵力として、薩摩の兵を率いて東京へ出た。廃藩置県は、西郷の兵が後ろ盾になって実行された。
維新後、留守政府の中心にいたが、朝鮮への使節派遣(征韓論)をめぐって敗れ、下野した。岩倉使節団が欧米を回っていた2年近く、西郷は留守を預かり、学制、徴兵令、地租改正の準備、太陽暦の採用など、大きな改革を次々に進めた。朝鮮が新政府の国書を受け取らないことが問題になると、自ら使節として朝鮮へ行くと言い出し、いったんは閣議で決まった。だが帰国した岩倉と大久保がこれを覆し、1873年の征韓論政変で西郷は政府を去った。多くの軍人と官僚が後を追った。

本人の主張は、まず自分が非武装で行くというものだったとされ、出兵論とは分けて読む説がある。一方、板垣退助に宛てた手紙には、自分が殺されれば兵を出す名分になる、という趣旨の文もあり、やはり戦争を見越していたとする見方もある。
鹿児島で私学校を開き、その生徒が起こした反乱に担がれて死んだ。私学校は、職を失った士族の若者たちに軍事と漢学を教える場で、県の行政まで握るほどの勢力になった。1877年1月、政府が鹿児島の弾薬を運び出そうとすると、私学校の生徒たちが火薬庫を襲った。知らせを聞いた西郷は、しまった、と言ったと伝えられ、やがて、自分の体は皆にくれてやる、と挙兵を受け入れたという。

西南戦争は、熊本城の攻略に失敗し、田原坂の激戦で敗れ、九州を転戦した末に、鹿児島の城山に追い込まれた。9月24日、政府軍の総攻撃のなかで銃弾を受け、部下の介錯で死んだ。49歳。
死後12年で賊名を解かれ、上野に銅像が立つ。1889年、大日本帝国憲法の発布の発布に合わせて罪を赦され、位を贈られた。1898年、上野公園に犬を連れた銅像が建てられる。除幕式で妻の糸が、うちの人はこんな人ではなかった、と言ったという話が伝わる。

その顔は、写真が無いため想像で作られた。広く知られる肖像は、イタリア人の画家キヨッソーネが、弟の西郷従道と従弟の大山巌の顔をもとに描いたものとされる。
かつて敵として戦った庄内藩の旧藩士たちは、生前の言葉を集めて『南洲翁遺訓』にまとめた。命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るが、そういう人でなければ国の大事は成し遂げられない、という一節がよく知られる。新しい国を作った人が、その国に背いて死んだ。その割り切れなさが、いまも西郷が人を引きつける理由になっている。