承久の乱
概要
上皇が幕府を倒そうとして敗れた。朝廷が武家に屈したことが、はっきり形になる。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(2)
北条義時AD1163年–AD1224年 · 幕府側北条泰時AD1183年–AD1242年7月14日 · 京へ攻め上った本文
建久3年(1192年)に源頼朝が征夷大将軍となってから、東国には鎌倉の幕府があり、京都には朝廷があるという二つの権力が並び立っていた(鎌倉幕府の成立)。幕府の力が及ぶのは主に御家人と東国で、西国の多くの荘園はなお朝廷や貴族、寺社のものだった。
朝廷の中心にいたのは、後鳥羽上皇である。和歌に優れて『新古今和歌集』の編纂を命じ、武芸にも通じた多才な人物だった。院の御所の警固に北面の武士に加えて西面の武士を置き、独自の武力も蓄えていた。

頼朝の死後、幕府では有力な御家人どうしの争いが続き、北条氏が実権を握っていった。建保7年(1219年)、3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺される。源氏の将軍は3代で絶えた。幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えたいと願ったが、上皇はこれを拒み、結局、摂関家の幼い子を京都から迎えることになった。上皇と幕府の間には、地頭の任免をめぐる対立もあった。
承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇は、幕府の実権を握る執権北条義時を討てという命令を諸国に下した。京都にいた幕府の出先の役人・伊賀光季は攻め殺された。上皇の側は、院の命令が出れば、東国の武士も義時を見捨てて従うと考えていた。

知らせが鎌倉に届くと、御家人たちは動揺した。朝廷に弓を引くことは、それまでの武士の誰もしたことがない。このとき、頼朝の妻であった北条政子が御家人たちを集め、言葉を伝えたと『吾妻鏡』は記す。頼朝が幕府を開いてから、皆が受けてきた恩は山よりも高く海よりも深い。名を惜しむ者は、上皇をそそのかした者どもを討ち取り、三代の将軍の残したものを守れ、という内容である。政子の言葉は、側近の安達景盛が代読したとされる。
鎌倉では、箱根や足柄の関で守りを固めるべきだという意見も出たが、大江広元が、ただちに京都へ攻め上るべきだと主張し、政子もそれを支持した。義時の子北条泰時と弟の時房が大将となり、軍は東海道・東山道・北陸道の三手に分かれて京都へ向かった。『吾妻鏡』は総勢19万と書くが、誇張とされる。進むうちに、各地の武士が次々に加わった。
上皇の軍は美濃や尾張の川で防ごうとしたが、あっけなく破られた。最後の決戦は宇治川で行われ、増水した川を幕府軍が強引に渡って勝敗が決した。挙兵からおよそ1か月で、幕府軍は京都に入った。上皇は、今回のことは側近たちが勝手にやったことだと言って義時追討の命令を取り消したと伝えられる。
処分は厳しかった。後鳥羽上皇は隠岐に、その子の順徳上皇は佐渡に流された。計画に加わらなかった土御門上皇も、自ら望んで土佐へ移り、のちに阿波へ移った。位に就いたばかりの幼い仲恭天皇は退けられ、幕府の意向で後堀河天皇が立てられた。上皇の側についた公家や武士は処刑され、その所領3000か所あまりが取り上げられて、手柄を立てた御家人に分け与えられた。こうして東国の武士が西国に地頭として入り込み、幕府の力は全国に及ぶようになる。
幕府は京都に六波羅探題を置き、泰時と時房がその最初の長になった。朝廷の動きを見張り、西国の御家人を束ねる役所である。以後、皇位の継承にも幕府の意向が大きく働くようになった。
武士が朝廷と戦って勝ち、上皇を島へ流したことは、それまでの秩序をひっくり返す出来事だった。朝廷の権威はなお残ったが、実際の力は鎌倉にあることが誰の目にも明らかになった。11年後、泰時は武士のための法である御成敗式目を定める。承久の乱は、武家が日本の政治の中心に座る時代の、本当の始まりだったと言える。
後鳥羽上皇は、隠岐でおよそ19年を過ごし、都に帰ることなく延応元年(1239年)に世を去った。島でも和歌を詠み続け、自ら『新古今和歌集』を削り直した。のちの南北朝時代、北畠親房は『神皇正統記』で、北条氏の政治が民を安んじていた以上、上皇の挙兵には無理があったという趣旨を述べている。朝廷の側に立つ人物でさえ、そう書かざるを得なかったところに、この乱が残したものの大きさがある。