人物

北条時宗

Hōjō Tokimune
AD1251年 – AD1284年(享年33・推定)
鎌倉幕府重要度 4

概要

二度の元の襲来を退けた執権。ただし勝っても得る土地が無く、幕府は弱っていく。

関わったできごと(3)

元寇1274年 · 執権文永の役AD1274年11月19日(文永11年10月20日) · 執権弘安の役AD1281年7月(弘安4年閏7月) · 執権

本文

北条時宗は1251年、鎌倉幕府の執権北条時頼の嫡男として生まれた。北条氏は将軍を補佐する執権の地位を代々受け継ぎ、北条泰時の御成敗式目以来、幕府の実権を握っていた。父の時頼は、執権を退いた後も一族の惣領(得宗)として政治を動かした人物で、時宗は生まれたときから、その跡継ぎと定められていた。異母兄の時輔がいたが、母の家柄の差で、弟の時宗が嫡子とされた。7歳で、将軍宗尊親王を烏帽子親として元服している。

北条時宗の肖像
北条時宗の肖像Wikimedia Commons Unknown · Public domain

1264年、14歳で執権を補佐する連署となり、1268年、18歳で執権に就いた。その年の正月、高麗の使者が大宰府に着き、モンゴル皇帝フビライ・ハンの国書を届けた。国書は日本に通交を求めるもので、書き出しは丁寧だったが、結びには、兵を用いることを誰が好むだろうか、という一文があった。朝廷では返書の案が作られたが、幕府は返事を出さないことに決めた。その後もモンゴルと高麗の使者は何度か来たが、幕府はいずれも返事をせずに帰らせた。応じれば属国の扱いを受けかねないという判断と、海を越えて大軍が来ることへの実感の乏しさが、ともにあったと考えられる。幕府は九州に所領を持つ御家人に、現地へ下って防備につくよう命じた。

1272年、時宗は鎌倉と京都で、謀反の企てがあるとして一族の名越氏の人々を討たせ、京都の六波羅探題にいた異母兄の時輔も殺させた。二月騒動と呼ばれる。外からの脅威を前に、得宗のもとに権力を集める動きだった。

江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎
江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎Wikimedia Commons 菊池容斎 · Public domain

1274年10月、モンゴルと高麗の軍が対馬と壱岐を襲い、博多湾に上陸した(文永の役)。集団で戦い、火薬を使った武器を用いる敵に、一騎ずつ名のりを上げて戦う日本の武士は苦戦した。だが元軍は一日の戦いのあと船に引き上げ、まもなく撤退した。撤退の理由については、嵐に遭ったとする説のほか、もともと威嚇のための遠征だった、内部の不和があった、など諸説ある。

時宗は、次の襲来に備えた。翌1275年、降伏を促しに来た元の使者杜世忠ら5人を鎌倉に送らせ、龍ノ口で斬った。1279年に来た使者も博多で斬らせている。もう交渉はしないという意思表示だった。博多湾の海岸には、高さ2メートル余りの石の防塁(石築地)を20キロにわたって築かせ、九州の御家人に分担して守らせた。異国警固番役と呼ばれる。御家人でない武士まで動員できるよう朝廷から許しを得たことも、幕府の力が西国に広がるきっかけになった。同じ1279年、元は南宋を滅ぼしている(崖山の戦い)。

崖山の戦いに関わる図版:Jingmen002
崖山の戦いWikimedia Commons (Long night without wind) 长夜无风 · CC BY 3.0

1281年、元は高麗から渡る東路軍と、旧南宋の兵を中心とする江南軍の二手で、合わせて14万といわれる大軍を送った(弘安の役)。東路軍は博多湾に迫ったが、防塁に阻まれて上陸できず、志賀島などで日本の武士の夜襲を受けた。江南軍と合流して平戸から鷹島のあたりに集まったところで、閏7月の初めに暴風に襲われ、多くの船が沈んだ。残った兵の多くは討たれたり捕らえられたりした。二度の襲来は元寇と総称される。

時宗は、若い頃から禅に深く帰依していた。1279年、南宋から禅僧の無学祖元を招いて師とした。祖元は、元の兵が寺に踏み込んだとき、臨剣の頌と呼ばれる詩を唱えて動じなかったという逸話で知られる。弘安の役を前にした時宗に、祖元が「莫煩悩」、思い悩むな、の三字を与えたという話も伝えられる。1282年、時宗は二度の戦いで死んだ人々を、敵味方の区別なく弔うために、鎌倉に円覚寺を建てた。

勝ったあとに、問題が残った。外国からの侵入を防いだ戦いでは、敵から奪える土地が無い。御家人たちは自分の費用で武具や兵糧を整えて戦ったが、幕府には十分な恩賞を配る手立てが無かった。肥後の御家人竹崎季長が、恩賞を求めて鎌倉まで出向き、幕府の役人に直接訴えた様子は、彼自身が描かせた『蒙古襲来絵詞』に残されている。さらに、元が三度目の遠征を計画していたため、警備は解けなかった。

1284年、時宗は病に倒れ、出家したその日に死んだ。満32歳、数えで34歳だった。翌年、幕府の内部で有力御家人の安達泰盛と北条氏の家臣平頼綱が争い、泰盛の一族が滅ぼされた(霜月騒動)。御家人の困窮は進み、1297年には借金を帳消しにする永仁の徳政令が出されるが、かえって金融を混乱させた。得宗とその家臣に権力が集まるほど、御家人の不満は幕府そのものに向かった。時宗の死から49年後の1333年、鎌倉幕府は滅びる。

時宗は、国書に応じなかったことで戦いを招いたとも、国を守り抜いたとも評されてきた。明治以後は、外敵を退けた英雄として持ち上げられ、教科書でも大きく扱われた。若くして重い決断を重ね、勝利のあとの負担を抱えたまま世を去った執権だった。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1251年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →