足利尊氏
概要
幕府の御家人として後醍醐を討ちに出て、途中で寝返って幕府を倒し、二年で後醍醐に背いた。九州へ逃げ、戻って京を取り、幕府を開いた。気前がよく、戦に強く、鬱になって出家しようとした。夢窓疎石が「三つの徳」を挙げた。
関わったできごと(2)
建武の新政AD1333年 · 背いた湊川の戦いAD1336年7月4日 · 勝者本文
足利尊氏は、1305年、下野の足利荘を本拠とする有力な御家人、足利貞氏の次男として生まれた。初めの名は高氏で、母は上杉氏の出の清子である。足利氏は、源義家の子孫にあたる源氏の名門で、鎌倉幕府を握る北条氏とは代々婚姻を重ね、幕府の中で特別な家格を持っていた。兄が若くして亡くなったため、高氏が家を継いだ。妻は、北条氏の一門の赤橋登子で、のちに最後の執権となる赤橋守時の妹だった。北条氏にとって、足利氏は最も頼りになる味方であるはずだった。

14世紀のはじめ、鎌倉幕府への不満は、御家人の困窮と北条氏の専横の中で高まっていた。皇位の継承を巡って二つの皇統が交代で天皇を出す状態に不満を持つ後醍醐天皇(後醍醐天皇)は、幕府を倒す計画を重ねた。1331年に計画が漏れて天皇が挙兵すると(元弘の変)、高氏は父の喪中にもかかわらず、幕府の命令で鎮圧の軍に加えられて上洛させられた。天皇は捕らえられて隠岐へ流されたが、その後も楠木正成(楠木正成)らが各地で抵抗を続け、1333年には天皇が隠岐を脱出した。
幕府は再び高氏に大軍を預けて西へ送った。だが高氏は、京へ向かう途中で態度を翻した。1333年4月29日、丹波の篠村八幡宮で、彼は幕府に背いて兵を挙げ、5月7日、京にあった幕府の出先の六波羅探題を攻め落とした。彼がいつ後醍醐の側につくと決めていたのか、天皇から倒幕を命じる文書を前から受け取っていたのかは、はっきりしない。同じ5月、関東では新田義貞が挙兵して鎌倉に攻め込み、5月22日、北条氏の一族は自害して、鎌倉幕府は滅んだ(鎌倉幕府の成立)。義貞の軍には、鎌倉を脱出した高氏の4歳の息子、千寿王(のちの義詮)が加わっており、関東の武士たちはこの幼い子のもとに集まった。

後醍醐天皇が始めた新しい政治(建武の新政)で、高氏は功第一とされ、天皇の名の尊治から一字を与えられて尊氏と名を改めた。だが、武士の棟梁にふさわしい征夷大将軍の位は、天皇の皇子の護良親王に与えられた。尊氏と護良親王は鋭く対立し、やがて親王は捕らえられて鎌倉の尊氏の弟、直義のもとに送られた。新しい政治は、公家を重んじ、恩賞が公平でないと武士たちの不満を買っていた。
1335年7月、北条氏の生き残りの北条時行が兵を挙げて鎌倉を奪った(中先代の乱)。尊氏は、征夷大将軍の位を与えて討伐に向かわせてほしいと願い出たが、天皇は許さなかった。尊氏は許しを待たずに出陣し、鎌倉を取り戻した。だが、そのまま京へ戻らず、独断で武士たちに恩賞を与え始めた。天皇はこれを謀反とみなし、新田義貞に尊氏の討伐を命じた。このとき尊氏は、天皇に弓を引くことをためらい、鎌倉の寺に籠もって、戦わずに出家すると言い出したと伝えられる。弟の直義が出陣して敗れ、足利氏が滅びかねないと知って、尊氏はようやく立ち上がった。12月、箱根と竹ノ下で義貞の軍を破ると、尊氏はそのまま京へ攻め上り、1336年1月、京を占領した。
だが勝利は長く続かなかった。奥州から駆けつけた北畠顕家の軍と、楠木正成、新田義貞の軍に敗れ、尊氏はわずかな兵とともに西へ落ち、九州まで逃れた。逃げる途中、彼は、後醍醐と対立するもう一方の皇統の光厳上皇から、義貞を討てという命令の文書を手に入れた。これで尊氏の軍は、天皇に逆らう賊軍ではなく、上皇の命を受けた官軍だと名乗れるようになった。3月、筑前の多々良浜で、尊氏ははるかに多い菊池氏の軍を破り、九州の武士たちを味方につけた。5月、海と陸から東へ攻め上った尊氏の軍は、摂津の湊川で楠木正成を討ち(湊川の戦い)、6月、再び京に入った。

1336年8月、尊氏は光厳上皇の弟を光明天皇として立てた。この月、彼は京の清水寺に一通の願文を納めている。この世は夢のようなものです、どうか私に仏を求める心を与え、来世を救ってください、早く世を捨てたいのです、この世での幸いは弟の直義に与え、直義を守ってください、という内容である。京を手中にしたまさにそのときに、彼は世を捨てたいと書いたのである。11月、尊氏は新しい政治の方針を示す建武式目を定め、幕府を京に置くことを決めた。12月、後醍醐天皇は京を逃れて吉野に移り、自らが正しい天皇だと主張した。こうして、京の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝の時代が始まった。1338年、尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられた(室町幕府の成立)。
1339年、吉野で後醍醐天皇が亡くなると、尊氏は禅僧の夢窓疎石(夢窓疎石)の勧めに従い、天皇の霊を弔うために京の嵯峨に天龍寺を建てた。敵として戦った相手のための寺である。建設の費用をまかなうため、中国の元へ貿易の船が送られ、天龍寺船と呼ばれた。尊氏は、内乱で死んだ敵味方の霊を弔うために、国ごとに安国寺と利生塔を置くことも進めた。彼は自ら地蔵菩薩の絵を数多く描いたことでも知られる。

幕府の政治は、はじめ、軍事と恩賞を尊氏が、裁判と政務を直義が受け持つ二頭の体制で動いた。だが、伝統を重んじる直義と、尊氏の執事で戦の功を誇る高師直との対立が深まり、1350年、ついに幕府を二つに割る内乱になった(観応の擾乱)。直義は一時、南朝と手を結んで師直の一族を滅ぼし、尊氏もまた直義を討つために南朝に降るという、なりふり構わぬ争いが続いた。1352年2月、尊氏に降伏して鎌倉に入った直義は、まもなく急死した。尊氏が毒を盛ったと『太平記』は伝える。直義の養子となっていた尊氏の実の子の直冬も、南朝方について父と戦った。願文で弟の幸せを祈った兄は、その弟と、自らの子と戦わなければならなかった。
1358年4月30日、尊氏は京の屋敷で、背中にできた腫れ物がもとで亡くなった。54歳だった。京の等持院に葬られ、等持院殿と呼ばれた。幕府を固めたのは、子の義詮と、孫の足利義満である。
尊氏の人柄について、足利氏の側から書かれた歴史物語『梅松論』は、夢窓疎石が挙げたという三つの徳を伝えている。心が強く、戦で命の危険に遭っても恐れる様子が無いこと。生まれつき慈悲深く、敵をも憎まず許したこと。心が広く、物惜しみをせず、金銀や土地を人に惜しみなく与えたこと。正月や八朔の贈り物が山のように届いても、その日のうちにすべて人に分け与えたという。そうした気前のよさに、武士たちは引き寄せられた。一方で、決断をためらい、世を捨てたいと繰り返す弱さもあわせ持っていた。
江戸時代の水戸藩の歴史書や明治以後の学校教育では、南朝が正しい皇統とされ、尊氏は天皇に背いた逆賊として扱われた。1934年には、尊氏を評価する昔の随筆が問題にされて、時の商工大臣が辞職に追い込まれたほどである。戦後、その評価は見直され、時代の転換を担った武家の棟梁として描かれるようになった。長く尊氏の肖像として教科書に載ってきた騎馬の武者の絵は、いまでは別の人物、たとえば高師直らを描いたものとする説が有力になっている。