宝永の大噴火

概要
宝永地震(M8.6)の49日後。富士山の南東の斜面が裂けて、16日、火山灰を吐いた。江戸に4センチ、麓の須走村は3メートルに埋まった。関東の田は埋まり、酒匂川が土砂で塞がって何年も洪水した。幕府は全国に「諸国高役金」を課して復興費を集め、大半は使わなかった。富士山はそれから300年、噴いていない。
場所
35.36°N 138.73°E · 静岡県・山梨県
本文
1707年10月28日(宝永4年10月4日)の昼過ぎ、日本の太平洋側を巨大な地震が襲った。宝永地震である。東海から四国の沖まで、南海トラフの広い範囲が一度に動いたと考えられており、規模はマグニチュード8.6前後と推定される。揺れと津波は東海、紀伊、四国の沿岸を襲い、土佐や大坂でも大きな被害が出た。死者は2万人を超えたともいわれる。
その49日後、12月16日(11月23日)の午前10時ごろ、富士山の南東の斜面が裂けた。前の晩から、ふもとの村々では地震が何度も続いていた。山腹の標高2500メートルから3000メートルのあたりに新しい火口が開き、黒い噴煙が空高く立ち上った。噴煙は上空の強い西風に流され、東へ、相模と武蔵の空へ広がっていった。

江戸にも灰が降った。学者の新井白石は、その日の昼、雷のような音を聞いて外に出ると、雪が降っているように見えたが、よく見るとそれは白い灰だった、と自伝『折たく柴の記』に書いている。空は暗くなり、昼なのに灯りをともして、将軍の跡継ぎに講義をしたという。灰は、はじめは白く、のちに黒くなった。
噴火は、強弱をくり返しながら16日間続き、12月31日(12月8日)に収まった。溶岩はほとんど流れ出さず、噴き出したのは火山灰と、スコリアと呼ばれる黒く軽い軽石のような石だった。その量は、およそ0.7立方キロメートルと見積もられている。東京ドーム500杯以上にあたる。

火口の東のふもと、駿河の須走村は、焼けた石と砂に埋まった。積もった厚さは3メートルほどに達し、家々は焼けたり押しつぶされたりした。その東の足柄の山あいでも、1メートル前後の砂が田畑を覆った。小田原や、さらに東の相模の平野、そして江戸でも、数センチから数十センチの灰が積もった。灰は風に舞い、人びとはのどや目を痛めた。
被害は、噴火が終わってからのほうが長く続いた。山の斜面に積もった大量の砂は、雨のたびに川へ流れこんだ。足柄平野を流れる酒匂川は、上流から運ばれる砂で川底が上がり、翌1708年、大雨で堤が切れて平野を水浸しにした。その後も、川はくり返しあふれた。砂に埋まった田畑では作物が育たず、村を捨てて逃げる人も出た。

小田原藩は、とても自力では立ち直れなかった。幕府は、被害の大きかった村々を藩から取り上げて直接治め、代わりの領地を藩に与えた。代官の伊奈忠順が、砂を除き川をさらう役を命じられ、村々の救済に当たった。だが、酒匂川の治水は難しく、堤は何度も切れた。1720年代になって、8代将軍徳川吉宗に取り立てられた民間の出の田中丘隅が、酒匂川の大規模な改修を指揮した。被災した村々がすべて小田原藩に返されたのは、噴火から40年ほど後のことである。
幕府は、復興の費用を集めるため、1708年、全国の大名の領地と幕府の直轄地に、石高100石につき金2両を出させた。「諸国高役金」と呼ばれる。集まった額は48万両あまりにのぼった。ところが、被災地の救済に使われたのは、そのうちの一部にとどまったとされる。残りは江戸城の御殿の造営などにまわされた、と伝えられる。5代将軍徳川綱吉の時代、幕府の財政は苦しく、貨幣の質を落として差益を稼ぐほどだった。

富士山の南東の斜面には、いまも宝永火口と呼ばれる大きなくぼみが口を開けている。登山道から見上げると、なめらかな円錐の山腹が、そこだけえぐられているのが分かる。その脇に盛り上がった小さな峰は、宝永山と呼ばれる。
宝永の噴火のあと、富士山は300年以上噴火していない。平安時代には、864年の貞観の噴火で大量の溶岩が流れ、いまの青木ヶ原の樹海のもとになった。記録に残るかぎり、富士山は数十年から百数十年ごとに噴火してきた。これほど長い沈黙がいつまで続くのかは、誰にも分からない。国や自治体は、宝永噴火と同じ規模の噴火が起きた場合、首都圏にも数センチから10センチほどの灰が積もり、交通や電気が止まると想定して、備えを進めている。