福原遷都
概要
清盛が天皇と院を連れて、自分の別荘のある福原へ都を移した。大輪田泊。宋との貿易の港。公家も僧も反対し、東国で頼朝が挙兵し、半年で京に戻った。『方丈記』の鴨長明が「都遷り」の混乱を書いた。
場所
34.68°N 135.17°E · 兵庫県神戸市
関わった人(1)
平清盛AD1118年–AD1181年 · 移した本文
福原は、いまの神戸市兵庫区のあたり、六甲の山が海に迫る狭い土地である。平清盛は1168年に病で出家すると、まもなく京を離れてこの地の山荘に住み、ここから朝廷を動かすようになった。目の前には古くからの港、大輪田泊があった。清盛はこの港を宋の大きな船が入れるように造り直し、風を防ぐ人工の島を築かせた。経が島と呼ばれるこの島には、人柱を立てるかわりに経を書いた石を沈めたという言い伝えが残る。
宋との貿易は、清盛の力の源の一つだった。宋の銭や陶磁器、書物が入り、日本からは金や硫黄や木材が出ていった。1170年には、後白河法皇が福原で宋の商人と対面している。都の貴族の日記には、天皇の位を経た人が異国人に会うなど前代未聞で、天魔の仕業だと書き付けたものもある。瀬戸内海を京の玄関口にしようとする清盛と、京の古いしきたりの間には、はじめから溝があった。
1179年、清盛は兵を率いて京に入り、後白河法皇を鳥羽の御殿に閉じ込めて院政を止めた。翌1180年2月には、娘の徳子が産んだ3歳の孫を安徳天皇として即位させる。平氏政権は頂点に立ったが、反発もまた頂点に近づいていた。4月、後白河の皇子の以仁王が、平氏を討てという令旨を諸国の源氏に送った。5月、以仁王の挙兵は宇治で鎮められたが、奈良の興福寺や近江の園城寺など、大きな寺の僧兵が以仁王の側についていた。

都遷りの知らせは、その鎮圧から間もない6月の初めに突然出された。6月2日、安徳天皇と高倉上皇、後白河法皇が京を発ち、翌日福原に着いた。あまりに急で、貴族たちは慌てて後を追った。なぜこの時に都を移したのかははっきりしない。寺の勢力の強い京と奈良から天皇を引き離すため、院や古い貴族の力を削ぐため、宋との貿易を国の中心に据えるため、といった理由が挙げられているが、清盛自身の言葉は残っていない。
福原では都の形が作れなかった。はじめは近くの輪田に新しい京を造る計画が立ったが、土地が狭く、碁盤の目の大路小路を引けなかった。北の昆陽野に移す案も出ては消えた。天皇の御所も貴族の家も間に合わず、人々は仮の住まいで暮らした。正式に都を移すのかどうかさえ、最後まで決まらなかった。そのため、これを本当の遷都と呼べるのかは、研究者の間でも見方が分かれる。

鴨長明は、のちに『方丈記』で、この夏の混乱を書いた(鴨長明『方丈記』)。「治承四年水無月のころ、にはかに都遷り侍りき」。家は取り壊されて淀川に浮かべられ、新しい土地へ運ばれていった。長明は自ら福原を見に行き、北は山、南は海が迫り、波の音がやかましく、潮風がひどいと書いている。そして、古い都はすでに荒れ、新しい都はまだできていない、と。人の心は落ち着かず、だれもが浮き雲のような思いでいた。
その間に、東国の情勢は急に動いた。8月、伊豆で源頼朝が挙兵する。9月には信濃で木曽義仲が立った。10月、平氏の追討軍は富士川の戦いで戦わずに崩れて逃げ帰った。地方の武士の反乱が広がるなか、天皇を福原に置いたままでは、京と東国の両方に目を配れない。延暦寺の僧たちも、京へ戻らなければ山を挙げて動くと迫った。11月、清盛はついに折れ、天皇と上皇、法皇は京へ帰った。福原にいたのは、わずか半年足らずである。

清盛は京へ戻るとすぐ、南都の興福寺と東大寺を焼き討ちにさせた。そして翌1181年閏2月、熱病で死んだ。1183年7月、木曽義仲の軍に追われて都を落ちた平氏は、福原に立ち寄り、そこにあった屋敷に火を放って西へ去った。翌1184年2月、平氏が福原の背後の山々と海の間に陣を構え直したところへ、源氏が攻め寄せたのが一ノ谷の戦いである。
福原の都は、はっきりした形を残さなかった。近年の発掘で、平氏の邸宅の堀や建物の跡と見られるものが見つかり、少しずつ姿が分かってきている。半年で終わった都遷りは、武家が自分の港を拠点に国を動かそうとした初めての試みだった、と見る人もいる。大輪田泊はその後も兵庫の津として栄え、のちの神戸の港へとつながっていった。