概要
信玄の四男、母は諏訪の娘。信玄が急死して、後見のはずが当主に。高天神城を取って、父を超えたと言われた翌年、長篠。名のある家臣がほとんど死んだ。7年、持ちこたえて、新府城を作り、1582年、信長が来て、家臣が離れ、天目山で妻(北条の娘、19歳)と子と自害した。37歳。
所属
武田氏関わったできごと(1)
長篠の戦いAD1575年6月29日(天正3年5月21日) · 突撃させた本文
1546年、諏訪。信玄の四男。母は諏訪頼重の娘(信玄が諏訪を滅ぼして側室にした)。諏訪四郎勝頼。武田の「信」の字がない。諏訪の家を継ぐはずだった。
1565年、兄義信が信玄に逆らって幽閉され、死んだ。次兄は盲目、三兄は早世。勝頼が残った。信玄は勝頼の子信勝を後継にして、勝頼を「陣代」(後見)にする、と遺言した、と『甲陽軍鑑』は言う。勝頼の正室は信長の養女(1567年に死んだ)。
1573年、信玄が死んだ。勝頼は攻めた。1574年、美濃の明智城、遠江の高天神城。信玄が落とせなかった城。「勝頼は強い」と信長は書いた。1575年、長篠。
7年。家臣は減った。北条と同盟し、上杉の御館の乱で景勝についた(北条の景虎を捨てた)ので、北条と敵になった。東を敵にして、西の信長と家康に押された。1581年、韮崎に新府城を作って移った。1582年2月、木曽義昌が信長についた。信長と家康と北条が三方から来た。穴山信君(信玄の甥、勝頼の義弟)が家康についた。新府城に火をつけて、小山田信茂を頼って岩殿城へ行く途中、小山田も裏切った。
3月11日、天目山の麓の田野。家臣41人。妻の北条夫人は19歳で、北条に帰れと言われて拒み、自害した。息子信勝は16歳。勝頼は37歳。首は信長のもとに送られ、信長は「日本に隠れなき弓取り」と言った、と『信長公記』。
武田が終わった。3か月後、本能寺。