人物

武田勝頼

Takeda Katsuyori
AD1546年 – AD1582年4月3日(享年36・推定)
武田氏重要度 3

概要

信玄の四男、母は諏訪の娘。信玄が急死して、後見のはずが当主に。高天神城を取って、父を超えたと言われた翌年、長篠。名のある家臣がほとんど死んだ。7年、持ちこたえて、新府城を作り、1582年、信長が来て、家臣が離れ、天目山で妻(北条の娘、19歳)と子と自害した。37歳。

所属

武田氏

関わったできごと(1)

長篠の戦いAD1575年6月29日(天正3年5月21日) · 突撃させた

本文

1546年、武田信玄の四男として生まれた。母は信濃の諏訪頼重の娘である。信玄は1542年に諏訪頼重を攻め滅ぼし、その娘を側室に迎えた。滅ぼした家の娘が産んだ子が、のちに武田家を継ぐことになる。

武田勝頼の肖像
武田勝頼の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

勝頼の名には、武田家の男子が代々受け継いできた「信」の字が無い。代わりに諏訪氏の通字の「頼」の字がつけられた。初めは武田の跡継ぎではなく、母の実家の諏訪家を継ぐ者として育てられたのである。1562年に信濃の高遠城主となり、「諏訪四郎勝頼」と名乗った。1567年には、織田信長の養女を妻に迎えた。武田と織田がまだ手を結んでいた頃のことで、妻は嫡男の信勝を産んだあと、まもなく死んだ。

勝頼が武田家を継ぐことになったのは、兄たちの不運のためだった。長兄の義信は、父が今川との同盟を破って駿河を攻めようとしたことに反対し、1565年に謀反の疑いで幽閉され、1567年に死んだ。次兄は生まれつき目が不自由で、三兄は早くに死んでいた。1571年、勝頼は甲府に呼び戻された。

武田晴信像(高野山持明院蔵)
武田晴信像(高野山持明院蔵)Wikimedia Commons Unknown · Public domain

1573年、信玄は西へ向かう遠征の途中で病死した。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で、勝頼の子の信勝が成人するまでの間、勝頼を「陣代」(後見人)とするよう命じたという。この話がどこまで事実かは分からないが、勝頼が信玄の重臣たちから、当主として十分に認められていなかったことはうかがえる。

勝頼は積極的に動いた。1574年、美濃の明知城を落とし、続いて遠江の高天神城を落とした。高天神城は、信玄でさえ攻めあぐねた徳川方の要害だった。信長は上杉謙信に宛てた手紙で、勝頼は若いが信玄の掟を守り、表裏をわきまえた油断のならない相手だ、という意味のことを書いている。武田の版図は、このとき最も広くなった。

1575年、勝頼は三河の長篠城を囲んだ。救援に来た信長と徳川家康の連合軍は、設楽原に馬防柵を築いて陣を構えた。勝頼は決戦を選び、武田の騎馬武者たちは柵に向かって攻めかかった(長篠の戦い)。結果は武田の大敗で、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら、信玄以来の名だたる重臣たちが次々に討ち死にした。鉄砲の「三段撃ち」で騎馬隊が壊滅したという有名な描き方は、後世の軍記物によるところが大きいとされるが、武田がこの戦いで取り返しのつかない人的損失を被ったことは確かである。

長篠の戦いに関わる図版:Battle-of-Nagashino-Map-Folding-Screen-1575
長篠の戦いWikimedia Commons Unknown author (Edo period, circa 18th century) · Public domain

それでも勝頼は、そこから7年持ちこたえた。領国の立て直しを図り、1577年には北条氏康の娘で北条氏政の妹にあたる女性を妻に迎えて北条との同盟を固めた。だが1578年、上杉謙信が急死し、上杉家で家督をめぐる内乱が起きると、勝頼は難しい選択を迫られた。争っていたのは、謙信の甥の景勝と、北条氏から養子に入った景虎だった。勝頼は初め両者の和睦を仲介しようとしたが、やがて景勝と結び、妹を嫁がせた。景虎は敗れて自害し、怒った北条氏は武田と手を切って、徳川と結んだ。武田は東の北条と西の徳川・織田に挟まれることになった。

1581年、徳川軍に囲まれた高天神城を、勝頼は救援できずに見捨てた。籠城兵は城を出て討ち死にした。味方の城を救えない当主という評判は、武田の家臣や国衆の心を大きく揺さぶった。勝頼は同じ年、甲府から韮崎に新しい城・新府城を築いて移り、守りを固めようとしたが、その築城の負担もまた家臣と領民に重くのしかかった。

『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)
『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)Wikimedia Commons Utagawa Kunitsuna · Public domain

1582年2月、信玄の娘婿で木曽谷を治める木曽義昌が信長に寝返った。これを合図に、信長の嫡男・信忠の軍が信濃から、家康の軍が駿河から、北条の軍が関東から、一斉に武田領へ攻め込んだ。武田方の城は次々に戦わずに降り、信玄の甥で勝頼の姉婿でもある重臣の穴山信君まで、家康に通じた。勝頼の弟の仁科盛信が守る高遠城だけが激しく戦ったが、落ちた。

3月、勝頼は完成したばかりの新府城に火を放ち、重臣の小山田信茂を頼って、その居城の岩殿城へ向かった。だが小山田も途中で寝返り、行く手を阻んだ。行き場を失った勝頼の一行は、甲斐の天目山の麓、田野の地に追い詰められた。従う者はわずか数十人になっていた。

自刃する勝頼主従(月岡芳年画)
自刃する勝頼主従(月岡芳年画)Wikimedia Commons Yoshitoshi · Public domain

3月11日、織田方の兵に囲まれ、勝頼は自害した。37歳だった。北条夫人は、実家の北条へ帰るよう勧められたが拒み、19歳で夫とともに死んだ。嫡男の信勝も16歳で後を追った。甲斐源氏の名門・武田氏は、ここに滅んだ。勝頼の首は信長のもとに届けられて首実検された。田野には、のちに家康が一族の菩提を弔うために景徳院を建てている。

その3か月後、本能寺の変で信長自身が倒れる。主を失った甲斐と信濃をめぐって、徳川、北条、上杉が争うことになった。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

勝頼は長く、父の築いた家を滅ぼした「愚かな跡継ぎ」と語られてきた。『甲陽軍鑑』は彼を「強すぎる大将」と評し、勇猛さゆえに引くことを知らず、家を滅ぼしたとする。だが近年は、父の時代から引き継いだ外交の行き詰まりや、急速に力を伸ばす信長という相手を前にして、勝頼が置かれた条件の厳しさに目を向け、その武将としての力量を見直す研究が増えている。

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