伊達政宗
概要
幼いとき疱瘡で右目を失った。独眼竜。18歳で家督、5年で南奥州を取った。摺上原で蘆名を滅ぼした。秀吉の小田原に遅れて、死装束で行った。関ヶ原で東軍。仙台62万石。支倉常長をローマへ送った。料理を作り、能を舞い、詩を書いた。「あと20年早く生まれていたら」と言われる。70歳。
所属
伊達氏関わったできごと(1)
文禄・慶長の役1592年 · 出陣本文
伊達政宗は1567年、出羽の米沢城で、伊達輝宗の長男として生まれた。母の義姫は山形の最上義光の妹である。幼名は梵天丸。幼いころに疱瘡(天然痘)にかかり、右目の光を失った。のちに「独眼竜」と呼ばれるのはこのためである。飛び出した右目を、守り役の片倉小十郎景綱が小刀でえぐり取ったという話があるが、これは後世の伝えである。母は醜くなった兄より弟の小次郎を愛した、とも伝えられる。

数えの18歳で父から家督を譲られた。翌1585年、政宗は小手森城を攻め落とし、城にいた者を男女の別なく撫で斬りにしたと自ら書状に記している。同じ年の秋、降伏の交渉に来た二本松の畠山義継が、見送りに出た輝宗を捕らえて連れ去った。追いついた伊達勢は、阿武隈川のほとりで義継の一行もろとも輝宗を討ってしまう。政宗が撃てと命じたのか、家臣が撃ったのかは、史料によって書き方が違う。弔い合戦として二本松を攻めると、佐竹・蘆名らの連合軍が救援に来た。人取橋の戦いである。連合軍は3万、伊達勢はその数分の一とされ、政宗は辛うじて持ちこたえた。
1589年、磐梯山の麓の摺上原で蘆名義広を破り、会津の黒川城に入った。南奥州の大半が政宗のものになった。数えの23歳だった。
ところが、この戦いは、大名どうしの私戦を禁じた豊臣秀吉の命令に背くものだった。翌1590年、豊臣秀吉が北条氏を攻めて小田原を囲むと、政宗は参陣を迷い、大きく遅れて駆けつけた。このとき白い死装束で秀吉の前に出たと伝えられる。秀吉は会うことを許し、命は助けたが、会津は取り上げられた(秀吉の天下統一)。翌年には、旧葛西・大崎領で起きた一揆を裏で煽ったと疑われた。政宗は、疑いのもとになった書状は偽物だと弁明し、金箔を押した磔柱を先頭に立てて上洛したという話が残るが、確かな史料ではない。結局、伊達家の古い本拠を離れて岩出山に移された。
文禄・慶長の役では朝鮮へ渡った。出陣のとき伊達勢の装いが京の人々の目を奪い、派手な身なりを「伊達者」と呼ぶようになったという話もある。

1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき、会津の上杉を北から攻めた。徳川家康は勝てば旧領を返し、合わせて百万石にするという書状を政宗に出していた。だがこの約束は果たされなかった。政宗が南部領で一揆を起こさせたことが露見したためとされる。所領は仙台62万石に落ち着き、政宗は青葉山に城を築いて、城下町仙台を一から作った。
1613年、政宗は家臣の支倉常長を、フランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロとともに、領内の月ノ浦から送り出した。仙台領で建造した洋式帆船サン・フアン・バウティスタ号で太平洋を渡り、メキシコを経てスペインに入り、常長はマドリードで洗礼を受け、ローマで教皇に謁見した。慶長遣欧使節である。政宗の狙いは、メキシコとの直接の貿易だったとされる。スペインの力を借りて幕府に対抗する気だったと見る説もあるが、裏づけは乏しい。常長が7年後に帰国したとき、日本はキリシタン禁教令を出したあとで、交易の話は実を結ばなかった。30年ほど前の天正遣欧少年使節と同じく、帰った使節を待っていたのはキリスト教を禁じた国だった。

晩年の政宗は、三代将軍徳川家光から重んじられ、戦国を知る長老として遇された。料理に凝り、もてなしとは旬の物を主人が自ら調えて出すことだ、という意味の言葉が伝わる。能を好み、和歌と漢詩をよくした。「馬上少年過ぐ、世平らかにして白髪多し」で始まる詩は、若い日を馬の上で過ごした者が、太平の世に老いていく感慨を詠んだものである。
1636年、江戸の屋敷で死んだ。数えの70歳。肖像は両目をそろえて描くように言い残したと伝えられ、死後に作られた木像も両目が開いている。仙台の瑞鳳殿に葬られ、霊屋が戦災で焼けたのち、1974年に墓所が発掘された。遺骨からは身長159センチほどと推定されている。

「あと20年早く生まれていれば天下を取れた」と言われることがある。これは後世の評で、本人の言葉ではない。秀吉と家康の二人に何度も首を危うくされながら、そのたびに切り抜けて大藩を残した。その手並みのほうが、この人の実像に近い。