できごと

天保の飢饉

Tenpō famine
1833年 – 1837年
期間を持つできごと重要度 3
天保の飢饉に関わる図版:天保の大飢饉
天保の大飢饉 Wikimedia Commons Watanabe Kazan · Public domain

概要

数十万人が死んだとされる。各地で一揆が起き、幕府の統治能力が問われはじめる。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

本文

江戸時代の日本は、およそ50年ごとに大きな飢饉に見舞われた。享保の飢饉(享保の飢饉と打ちこわし)、天明の飢饉(天明の飢饉)、そして天保の飢饉である。どれも寒い夏や長雨で稲が実らず、それが何年か続いたときに起きた。米の取れ高で年貢を取り、藩も武士も米を売って暮らしを立てる仕組みは、凶作に弱かった。米が取れなければ、農民は食べるものを失い、藩は収入を失い、町では米の値が跳ね上がる。

天保4年(1833年)、東北地方を中心に、夏になっても気温が上がらず、長雨と洪水が重なって稲が実らなかった。出羽や陸奥の諸藩では、年貢を取り立てたあとの農村に食べるものが残らず、人々は草の根や木の皮を食べた。米どころの藩が、高く売れる江戸や大坂へ米を送り出していたことも、地元の飢えを深めた。翌年、翌々年も天候は回復せず、天保7年(1836年)には全国的な大凶作となった。この年の冷夏は特にひどく、東北の一部では平年の収穫の数分の一しか取れなかったという。

仙台藩の陸奥領郡方人口(一関藩を除く)、仙台・一関藩総人口の変遷
仙台藩の陸奥領郡方人口(一関藩を除く)、仙台・一関藩総人口の変遷Wikimedia Commons Orichalcum · Public domain

飢えで、あるいは飢えで弱ったところを襲った疫病で、多くの人が死んだ。死者は全国で数十万にのぼるとされるが、確かな数は分かっていない。村を捨てて食べ物を求め、城下町や江戸へ流れ込む人々が後を絶たなかった。幕府は江戸の各所に御救小屋を建て、粥を配って流民を収容した。下野の桜町の農村の立て直しに取り組んでいた二宮尊徳は、凶作を予見して稗を植えさせ、村から飢え死にを出さなかったと伝えられる(二宮尊徳の村の立て直し)。

米の値は何倍にも上がり、各地で一揆と打ちこわしが続いた。天保7年には、甲斐の郡内地方の農民が米の買い占めに怒って立ち上がり、一揆は国中に広がって1万人を超える規模になった。三河でも大きな一揆が起きた。百姓一揆の件数は、天保年間に江戸時代を通じて最も多い水準に達した。

天保8年(1837年)2月、大坂で大塩平八郎が兵を挙げた(大塩平八郎の乱)。大塩は大坂東町奉行所の与力を務めた元役人で、在職中は不正を暴く硬骨の吏として知られ、退いたあとは私塾を開いて陽明学を教えていた。大坂の町でも米が不足して餓死者が出ているのに、奉行所は幕府の命で米を江戸へ回し、豪商たちは米を買い占めて利をむさぼっていた。大塩は奉行に救済を訴えたが聞き入れられず、自分の蔵書を売り払って金に換え、困窮した人々に配った。そのうえで、門弟や近在の農民を集めて決起した。

大塩の軍は「救民」の旗を掲げ、豪商の屋敷に火を放って大坂の町を進んだが、奉行所の兵に半日で鎮められた。燃え広がった火は大坂の町のおよそ5分の1を焼いた。大塩は40日ほど町に潜んだ末、隠れ家を囲まれて火を放ち、自ら命を絶った。乱そのものは小さかったが、衝撃は大きかった。幕府の直轄の大都市で、しかも幕府の役人だった者が、民を救うために幕府に刃を向けたのである。大塩の檄文は写されて各地に広まり、同じ年の夏、越後の柏崎では、国学者の生田万が大塩の門弟を名乗って代官所を襲った。

同じ1837年、日本人の漂流民を送り届けに来たアメリカの商船モリソン号を、幕府は異国船打払令に従って砲撃して追い返した。このことを批判した蘭学者たちは、2年後に罰せられる(蛮社の獄)。国の中では飢饉と一揆、外からは異国の船。幕府を取り巻く状況は、天保の飢饉のころから目に見えて厳しくなっていった。

飢饉が収まると、老中の水野忠邦が天保の改革に乗り出した(天保の改革)。倹約令で贅沢を禁じ、株仲間を解散させて物価を下げようとし、江戸に流れ込んだ農民を村へ帰らせ、江戸と大坂の周りの土地を幕府の直轄にしようとした。だがどれも思うような成果を上げず、大名や旗本の反発を受けて、忠邦は2年あまりで退けられた。

一方で、同じころ改革に取り組んだ藩もあった。長州藩では村田清風が借財の整理と産業の育成を進め(長州藩)、薩摩藩では調所広郷が莫大な借金を事実上踏み倒し、奄美の砂糖の専売や密貿易で財政を立て直した(薩摩藩)。こうして力を蓄えた西国の大藩が、のちの幕末の政局で主役となる。

天保の飢饉は、幕府が民の飢えにうまく応えられず、各地の不満を押さえきれなくなったことを示した。飢饉から30年あまり後、幕府は倒れる。飢饉がそのまま幕府を倒したわけではないが、統治の綻びが表に出た時代として、天保の年号は記憶されている。

出典(1)

磯田道史 『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』第2章(天保の飢饉と藩の財政)

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