できごと

蓮如の吉崎御坊

Rennyo at Yoshizaki
AD1471年
重要度 4
シベリアの諸集団白帳ハン国明チベットパガン朝アユタヤ朝日本朝鮮王朝スコータイ朝大越大越アイヌモシリAD1471年吉崎
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1471年の版図を描いています(12勢力)。

概要

比叡山に本願寺を焼かれた蓮如が、越前と加賀の境の丘に坊を建てた。「御文」。平易な言葉の手紙で門徒を作った。「南無阿弥陀仏」の六字を自分で書いて配った。数年で北陸が門徒で埋まり、1488年、加賀の門徒が守護を殺して100年の「百姓の持ちたる国」。

場所

吉崎
36.24°N 136.20°E · 福井県あわら市

関わった人(1)

蓮如AD1415年4月13日–AD1499年5月14日 · 建てた

本文

1457年、四十三歳の蓮如が本願寺の第八代の住職を継いだとき、本願寺は京都の東山の大谷にある小さな寺にすぎなかった。親鸞の墓所に始まる寺ではあったが、同じ親鸞の教えを受け継ぐ仏光寺などのほうがはるかに栄え、本願寺は比叡山延暦寺の末寺のような立場にあった。蓮如は若いころ、貧しさの中で父のもとで学び、着る物にも事欠いたと伝えられる。

蓮如は、親鸞の教えをわかりやすく説き直し、近江などで熱心に門徒を増やしていった。その勢いを延暦寺は警戒した。1465年、延暦寺の衆徒が大谷の本願寺を襲って打ち壊す。蓮如は近江の堅田や金森などの門徒のもとを転々とした。京都では応仁の乱が始まり、町は戦場になっていた。

応仁の乱に関わる図版:Onin-War-1467-1477-The-Battle-of-Onin-by-Utagawa-Yoshitora
応仁の乱Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

1471年、蓮如は北陸へ向かい、越前と加賀の国境に近い吉崎の地に坊を建てた。北潟湖に突き出た小高い丘の上である。吉崎には、北陸の各地から門徒が押し寄せた。参詣の人びとを泊める多屋と呼ばれる宿坊が坊の周りに建ち並び、数年のうちに、何もなかった丘は大きな寺の町になった。

蓮如の布教の道具は、手紙だった。「御文」と呼ばれる、仮名交じりのやさしい言葉で書かれた手紙で、阿弥陀仏を信じる心ひとつで誰もが救われる、という教えを、短く繰り返し説いた。門徒たちは村ごとに講という集まりを作り、そこで御文が読み上げられた。字の読めない人でも、耳で聞けば教えがわかる。御文は書き写されて各地に広まり、のちにまとめられて、いまも浄土真宗の寺で読まれている。

Rennyo5.1
Wikimedia Commons ブレイズマン · Public domain

もう一つの道具が名号だった。蓮如は「南無阿弥陀仏」の六字などを自ら紙に書き、門徒の集まりに授けた。門徒たちはそれを掛けて拝み、講の中心にした。生涯に書いた名号は、おびただしい数にのぼったとされる。高価な仏像や寺がなくても、名号一つで信仰の場ができる仕組みは、農村に教えを広めるのに向いていた。

吉崎に集まった門徒の多くは、村の農民や、北陸の水運や商いに関わる人びとだった。門徒どうしの結びつきは、村の自治の結びつきとも重なり、大きな力になっていく。その力は、やがて武士の争いに巻き込まれた。1474年、加賀の守護の富樫家の家督争いに門徒が加わり、富樫政親を助けて勝たせた。しかし、門徒と政親との関係はまもなく悪化する。

蓮如上人御誕生之地崇泰院
蓮如上人御誕生之地崇泰院Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

蓮如自身は、門徒が守護や地頭に逆らうことをいましめ、年貢はきちんと納めよ、と御文で説いていた。それでも、門徒の力が武力の争いに向かうのを止めることはできなかった。1475年、蓮如は吉崎を去る。坊にいたのは四年ほどだった。のちの記録には、門徒たちの争いに心を痛め、夜中にひそかに船で吉崎を離れたとも書かれている。その後、京都の山科に壮大な本願寺を建て、晩年には大坂の石山にも坊を開く。1499年、八十五歳で亡くなるまでに、五人の妻とのあいだに二十七人の子をもうけ、子どもたちを各地の寺に配して、本願寺の組織を固めた。

蓮如が去ったあとの1488年、加賀の門徒は、守護の富樫政親を攻めて自害に追い込んだ(加賀の一向一揆)。その後の加賀は、名目上の守護を立てながら、実際には門徒の組織と国人たちが治める国になり、のちに「百姓の持ちたる国のやう」と記されるようになる。この状態は、1580年に織田信長の軍に制圧されるまで、九十年あまり続いた。

蓮如上人(銅像)真宗大谷派山科別院長福寺境内
蓮如上人(銅像)真宗大谷派山科別院長福寺境内Wikimedia Commons 投稿者が撮影 · Public domain

本願寺は、蓮如の時代を境に、小さな寺から戦国の世の大名と渡り合う巨大な勢力へと変わった。その力は、のちに十年に及ぶ石山合戦で信長と争うまでになる。吉崎の坊は戦乱で焼け、いまは跡地が史跡として残り、麓には寺が建っている。蓮如が北陸で過ごした四年は、浄土真宗が日本で最も大きな仏教の宗派の一つになる道の、出発点だった。

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