できごと

関ヶ原の戦い

Battle of Sekigahara
AD1600年10月21日
重要度 5
関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
Sekigaharascreen Wikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

概要

一日で天下の帰趨が決まった。この配置がそのまま、260年の幕藩体制の骨格になる。

場所

関ヶ原
35.37°N 136.46°E · 日本・岐阜県

関わった人(3)

徳川家康AD1543年–AD1616年 · 東軍 · 総指揮石田三成AD1560年–AD1600年11月6日(慶長5年10月1日) · 西軍黒田官兵衛AD1546年12月22日–AD1604年4月19日 · 九州で

本文

1598年、豊臣秀吉が死んだ。跡継ぎの秀頼はまだ6歳だった。秀吉は死の前に、有力な大名5人(五大老)と、政務を担う奉行5人(五奉行)に、秀頼を支えて政治を進めるよう遺言した。五大老の筆頭は、関東に250万石を持つ徳川家康だった。

秀吉の死とともに、文禄・慶長の役で朝鮮に送られていた軍は引き揚げた。戦場で苦労を重ねた加藤清正や福島正則らの武将たちと、本国で兵站や戦功の査定を担った奉行の石田三成とのあいだには、深い恨みが生まれていた。1599年、両者の間を取り持っていた前田利家が死ぬと、武将たちは三成を襲おうとし、三成は奉行の職を退いて近江の佐和山城に引きこもった。家康は伏見城、続いて大坂城に入り、大名どうしの縁組みを勝手に進めるなど、秀吉の遺言に背く振る舞いを重ねて、事実上の天下人として振る舞い始めた。

文禄・慶長の役に関わる図版:Siege-of-Busanjin-1592
文禄・慶長の役Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1600年、家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いがあるとして、諸大名を率いて東へ兵を出した。家康が大坂を離れたのを見て、三成は動いた。五大老の一人の毛利輝元を総大将に担ぎ、家康を討つべしという檄を諸大名に送った。西軍の挙兵である。西軍はまず家康の家臣が守る伏見城を攻め落とした。

知らせを受けた家康は、下野の小山で東へ向かっていた大名たちと話し合い、軍を西へ返すことにしたとされる。この「小山評定」がどこまで史実どおりかには疑問を呈する研究もあるが、豊臣家の恩顧の大名の多くが、三成と戦うために家康の側に付いたことは確かである。福島正則らの東軍の先陣は西へ急ぎ、岐阜城を落とした。家康の息子徳川秀忠は3万あまりの兵を率いて中山道を進んだが、信濃の上田城で真田昌幸に足止めされ、決戦に間に合わなかった。

Japan Kinai Sankan topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

1600年10月21日(慶長5年9月15日)、西軍は大垣城から移動して、美濃の関ヶ原の西側の山々に陣を敷き、東から来る東軍を迎え撃つ形を取った。東軍と西軍、あわせて十数万が狭い盆地に集まった。兵力は、西軍がやや多かったとされる。陣の配置だけを見れば、高い所から東軍を囲む西軍が有利に見えた。

朝、霧が晴れ始めたころ、戦いが始まった。三成の陣や宇喜多秀家、大谷吉継の隊は激しく戦い、東軍を押し返す場面もあった。だが、西軍の大軍の中には、戦おうとしない部隊が多かった。南宮山に陣取った毛利秀元の軍は、前にいた吉川広家が家康とひそかに通じていたため、山を下りることができなかった。

Ishida Mitsunari
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

決め手は、寝返りだった。松尾山に1万5000ほどの兵を置いていた小早川秀秋が、昼ごろ山を駆け下り、西軍の大谷吉継の隊に襲いかかった。秀秋は秀吉の妻の甥で、豊臣の一門ともいえる立場にあった。これに続いて、大谷隊の近くにいた脇坂安治ら4隊も寝返った。大谷吉継は討たれるか自害し、西軍の陣は崩れた。秀秋がなかなか動かないのに業を煮やした家康が、松尾山に向けて鉄砲を撃ちかけて決断を迫った、という話は有名だが、これは後世に作られた話だとする見方が近年は強い。

家康は、開戦の前から西軍の大名たちに手紙を送り続けていた。その数は100通を優に超える。家康の側で調略の実務を担ったのは、黒田官兵衛の息子の黒田長政で、小早川や吉川との交渉も長政を通じて進められた。戦いそのものより、その前の書状のやり取りで勝負がついていた、という見方がある。

Mohri Terumoto
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

戦いは午後には決着した。西軍の島津義弘は、退路を断たれると、あえて敵の正面に向かって突き進み、多くの犠牲を出しながら戦場を脱した。三成は伊吹山の山中に逃れたが、数日後に捕らえられ、10月、京都の六条河原で小西行長らとともに処刑された。

同じころ、九州では、隠居していた黒田官兵衛が自ら兵を集め、西軍に味方した大名の城を次々に落としていた。官兵衛がこの機に天下を狙っていた、という話も伝わるが、後世の物語に属するものである。

Uesugi Kagekatsu
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

戦後の処置は徹底していた。西軍に付いた大名のうち90家近くが領地を没収され、毛利は120万石から37万石に、上杉は120万石から30万石に減らされた。没収された土地は東軍の大名に分け与えられたが、家康は豊臣恩顧の大名を西国の遠い土地に大きな領地で移し、江戸に近い要地や東海道沿いには自分の譜代の家臣を置いた。豊臣家は、摂津・河内・和泉の65万石あまりを持つ一大名の地位に落とされた。

1603年、家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く(江戸幕府の成立)。豊臣家が滅ぶのは、その12年後の大坂の陣である。関ヶ原で決まった大名の配置は、そのまま260年あまり続く幕藩体制の骨格になった。そして、この戦いで領地を大きく削られた西国の毛利と島津が、幕末に幕府を倒す中心になったことは、よく知られている。

動画(1)

【関ヶ原の覇者 家康の統治術 〜武家社会の基盤を築く大きな一手〜【52-10 COTEN RADIO 秀吉・家康編10】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO秀吉・家康編の関ヶ原の回

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