参勤交代の制度化
概要
家光が武家諸法度を改めて、大名は1年おきに江戸と国元を往復し、妻子は江戸に置く、と定めた。人質。大名は行列の費用と江戸屋敷の費用で財を減らし、街道と宿場と江戸が栄えた。260年、日本中の大名が同じ道を歩き、江戸は世界最大の街になった。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
徳川家光AD1604年8月12日–AD1651年6月8日 · 定めた本文
大名が主君のもとへ出向いて仕えることは、江戸時代に始まったことではない。豊臣秀吉は全国の大名を大坂や京都の聚楽第に集め、妻子を住まわせた。関ヶ原の戦いのあと、大名たちは自ら進んで江戸に参り、妻子や重臣の子を江戸に置いて、徳川家への忠誠を示すようになった。それは人質を差し出す、ということでもあった。
1635年、3代将軍徳川家光は、武家諸法度を改め、この慣行を制度として定めた。大名と小名は江戸と国元を交代で行き来することを定める、毎年夏の4月中に参勤せよ、という条文である。大名は原則として1年を江戸で、1年を国元で過ごす。最初は外様の大名が対象だったが、1642年には譜代の大名にも広げられ、関東の大名には半年ごとの交代が命じられた。将軍に直接仕える水戸藩のように江戸に常に住む家や、朝鮮との外交を担う対馬の宗氏のように、参勤の間隔を長くされた家もあった。

大名の妻と跡継ぎは、江戸の屋敷に住み続けなければならなかった。この決まりは法度の条文には書かれていないが、守るべき慣行として固く運用された。大名の跡継ぎは江戸の屋敷で生まれ育ち、家を継ぐまで国元を見たことがない、という者が少なくなかった。将軍の目の届く江戸に家族を置くことで、大名は国元で兵を挙げることができなくなった。江戸の出入り口の関所では、鉄砲が江戸に入ることと、女性が江戸から出ることが厳しく調べられたとされる。
参勤交代には、莫大な費用がかかった。最大の大名だった加賀の前田家の行列は、2000人から4000人にのぼったと伝えられる。金沢から江戸までおよそ480キロの道のりを、12日から13日ほどかけて歩いた。行列の人件費、宿代、川を渡る費用、そして江戸での暮らしの費用。大名は江戸に上屋敷、中屋敷、下屋敷という複数の屋敷を構え、多くの家臣を住まわせた。藩の支出の半分から7割ほどが、江戸での暮らしと参勤の旅に費やされたとも言われる。多くの藩は財政に苦しみ、商人からの借金を重ねた。

こうして大名の財力が削られ、幕府に逆らう力を失った、とよく説明される。ただ、それが幕府のもともとの狙いだったかどうかは分からない。寛永の法度は、むしろ、近ごろ供の人数が多すぎる、国や郡の負担になり民の苦しみになる、減らせ、と命じている。費用が膨らんだのは、大名どうしが行列の格式と見栄を競ったためでもあった。行列は、大名家の威信を道中の人びとに見せる、移動する儀式でもあった。
参勤交代は、国の姿を変えた。毎年、全国の大名の行列が江戸と国元のあいだを行き交うため、五街道と宿場をはじめとする街道が整えられ、宿場町が栄えた。大名や公家が泊まる本陣、それを補う脇本陣、一般の旅人の旅籠が並び、荷を運ぶ人馬が用意された。その人馬を出す負担は、街道沿いの村々に重くのしかかった。一方で、街道が整ったことで庶民の旅も盛んになり、やがて伊勢参りや、『東海道中膝栗毛』に描かれたような旅の文化が生まれる。

江戸は、全国の大名とその家臣たちが暮らす巨大な都市になった。18世紀には人口が100万人前後に達し、世界でも有数の大都市になったとされる。その半分ほどが武士とその家族だったと考えられている。武士たちの暮らしを支える商人と職人が集まり、江戸の裏長屋に住む町人の文化が花開いた。
行列には厳しい作法があった。先払いの者が道を空けさせ、行き合った庶民は道の脇に控えなければならなかった。大名どうしの行列がすれ違うときには、家の格に応じて駕籠を降りて挨拶するかどうかが決まっていた。行列を横切ることは許されず、幕末の1862年には、薩摩の島津家の行列の前を馬で横切ったイギリス人が殺傷される生麦事件が起きている。

参勤交代は、人と物と情報を全国に行き来させた。国元から来た武士たちは、江戸で流行の着物や本、芝居の話を覚え、国元へ持ち帰った。各地の特産物が江戸に運ばれ、江戸の言葉や作法が地方に広がった。全国の武士が同じ道を歩き、同じ都で暮らしたことは、地域ごとにばらばらだった日本に、共通の文化をもたらす一つの力になった。
この仕組みは、200年以上にわたって続いた。だが幕末、外国船が現れ、国の防備が急務になると、大名にとって参勤の負担は重すぎるものになった。1862年、文久の改革によって、参勤は3年に1度、江戸にいる期間は100日に緩められ、大名の妻子が国元に帰ることも許された。大名の家族を江戸に置くという、幕府の支配の要が外されたのである。江戸の大名屋敷は寂しくなり、町の景気も落ち込んだ。その5年後の1867年、将軍は政権を朝廷に返し、江戸幕府は終わりを迎えた。