できごと

弘安の役

Second Mongol invasion of Japan
AD1281年7月(弘安4年閏7月)
重要度 5
シベリアの諸集団元チャガタイ汗国チベットシュリーヴィジャヤクメール帝国スコータイ朝パガン朝日本高麗大越大越アイヌモシリチャンパAD1281年7月(弘安4年閏7月)博多
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1281年7月(弘安4年閏7月)の版図を描いています(14勢力)。

概要

東路軍4万と、南宋の降兵からなる江南軍10万。博多の石築地で上陸できず、鷹島で船を並べているところに台風が来た。船の多くは急いで造った川船だった。「神風」の語は江戸時代から。フビライは三度目を計画して、やめた。

場所

博多
33.59°N 130.40°E · 日本・福岡県

関わった人(2)

北条時宗AD1251年–AD1284年 · 執権フビライ・ハンAD1215年–AD1294年 · 送った

本文

1274年の文永の役のあと、フビライ・ハンは日本に使者を送り、服属を求めた。鎌倉幕府の執権北条時宗は、1275年に来た使者を鎌倉の竜ノ口で斬り、1279年に来た使者も博多で斬った。同じ1279年、元は南宋の残党を崖山で滅ぼし、中国全土を手にした。南宋の兵と船という大きな力が、元の手に入っていた。

1280年、フビライは日本遠征のための役所、征東行省を置いた。遠征軍は二手に分かれた。一つは東路軍で、モンゴル、漢人、高麗の兵およそ4万が、900隻の船で高麗の合浦から出る。率いるのは忻都、洪茶丘、それに高麗の金方慶である。もう一つは江南軍で、南宋から降った兵を中心におよそ10万、3500隻の船で慶元、いまの寧波から出る。総大将は、南宋から降った将軍范文虎だった。江南軍の船には農具や種もみが積まれていたとされ、日本に住みついて土地を耕すことまで考えていたと見られる。両軍は6月15日までに壱岐で落ち合う手はずだった。

Mōko Shūrai Ekotoba
Wikimedia Commons Author unknown. Illustration rolls were ordered by Takezaki Suenaga himself. · Public domain

一方、幕府も備えていた。文永の役のあと、九州の御家人に異国警固番役を課し、博多湾の海岸に石を積んだ防塁、石築地を築かせた。延長はおよそ20キロ、高さは2メートル前後とされ、上陸しようとする敵を海辺で食い止めるためのものだった。

東路軍は約束より早く、5月3日に合浦を出た。対馬と壱岐を襲ったあと、江南軍を待たずに博多湾へ向かい、6月6日に湾に入った。しかし海岸には石築地が連なり、その後ろに日本の武士が待ち構えていた。東路軍は上陸をあきらめ、湾の入口の志賀島に船をつないだ。日本の武士たちは小舟で夜襲をかけ、陸からも島へ攻め寄せた。伊予の河野通有の奮戦や、文永の役にも出た肥後の竹崎季長の戦いぶりが知られている。

1281年、元軍の船に乗り込む日本の武士たち
1281年、元軍の船に乗り込む日本の武士たちWikimedia Commons Takezaki Suenaga · Public domain

東路軍の中では疫病が広がった。『高麗史』は3000人が死んだと記す。東路軍はいったん壱岐へ退いた。江南軍のほうは、総大将の病と交代などで出発が遅れ、6月の中ごろになってようやく慶元を出た。両軍が平戸のあたりで合流したのは6月の末から7月にかけてのことで、14万の大軍は、伊万里湾の入口にある鷹島の周辺に船を集めた。

閏7月1日の前夜から、九州北部を暴風雨が襲った。台風だったと考えられている。湾内に密集していた船は、風と波で互いにぶつかり合い、多くが沈んだ。生き残った将たちは、壊れずに残った船を選んで逃げ帰ったと史書は伝える。鷹島などに取り残された兵には、日本の武士たちが攻めかかった。捕らえた者のうち、モンゴル人、高麗人、漢人は殺し、旧南宋の人々は殺さずに奴隷にしたと『元史』は記す。

混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)縦130cm×横160cmモンゴル帝国時代に作成された2種の原図を基に、1402年(明の建文4年)に李氏朝鮮で作られた現存最古の世界地図。西はアフリカ大陸から東は日本(右側下)まで描かれている。龍谷大学大宮図書館所蔵
混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)縦130cm×横160cmモンゴル帝国時代に作成された2種の原図を基に、1402年(明の建文4年)に李氏朝鮮で作られた現存最古の世界地図。西はアフリカ大陸から東は日本(右側下)まで描かれている。龍谷大学大宮図書館所蔵Wikimedia Commons Kim Sahyung, Lee Moo, Lee Hui · Public domain

損害の大きさは記録によって違う。『元史』は、10万の兵のうち帰れた者はわずか3人だったと書くが、これは誇張と見られている。『高麗史』によれば、東路軍で帰らなかった者は7000人あまりだった。江南軍の損害がはるかに大きかったことは確かで、全体では半数前後が失われたとする見方が多い。江南軍の船の多くは急ごしらえで、中には川で使う平底の船も混じっていたため、嵐に弱かったという説がある。ただし、のちの海底調査では、竜骨を持つ外洋向けの船も見つかっており、船の質だけで説明するのは難しい。

フビライは遠征をあきらめなかった。1283年には三度目の遠征の準備を命じたが、江南での反乱やベトナムへの遠征で手が回らず、1286年に計画を取りやめた。フビライは1294年に死に、日本遠征はついに行われなかった。1299年、元は禅僧の一山一寧を使者として送った。一山一寧はいったん伊豆に留め置かれたが、やがて鎌倉の建長寺や円覚寺に迎えられ、日本の禅宗と文化に大きな影響を残した。

クビライ・カアン国立故宮博物院所蔵
クビライ・カアン国立故宮博物院所蔵Wikimedia Commons Araniko · Public domain

日本の側にも、勝利の重い代償が残った。外国との戦いでは、敵から奪った土地が無いため、戦った御家人に与える恩賞の土地がない。そのうえ、元がまた来るかもしれないという警戒は続き、異国警固番役の負担はその後も御家人にのしかかった。困窮した御家人を救うため、幕府は1297年に永仁の徳政令を出し、売られた土地を取り戻させようとしたが、混乱を招いた。鎌倉幕府の成立への不満は、こうした中で積み重なっていった。

寺社は、勝利は自分たちの祈祷によって神仏が起こした風のおかげだと唱え、恩賞を求めた。日本は神々に守られた国だという意識は、この経験を通じて強まったとされる。のちにこの暴風は「神風」と呼ばれ、近代になると、国家主義の宣伝の中で大きく取り上げられた。太平洋戦争末期の特別攻撃隊にこの名が付けられたのも、その延長である。一方で、実際に元軍を食い止めたのは、石築地と武士たちの2か月近い防戦だったことも忘れてはならない。

クビライ・カアンの狩猟図劉貫道『元世祖出猟図軸』国立故宮博物院所蔵
クビライ・カアンの狩猟図劉貫道『元世祖出猟図軸』国立故宮博物院所蔵Wikimedia Commons Liu Guandao · Public domain

鷹島の沖では、1980年代から海底の調査が続いている。陶磁器や碇の石、火薬を詰めて投げた「てつはう」の実物などが引き上げられた。2011年には、竜骨を残した元の船の船体が見つかり、翌年、この海域は海底の遺跡として初めて国の史跡に指定された。2014年には二隻目の船も確認された。船の多くは、いまもその海の底に眠っている。弘安の役の全体像は、元寇の流れの中で見ると分かりやすい。

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