享保の改革
概要
財政の立て直しを図り、洋書の輸入制限も緩めた。これが後の蘭学につながる。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
徳川吉宗AD1684年11月27日–AD1751年7月12日 · 将軍本文
1716年、7代将軍の家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の本家の血筋が絶えた。次の将軍に選ばれたのは、紀州藩主の徳川吉宗である。吉宗は藩主として紀州の財政を立て直した実績を持っていた。江戸に入るとすぐ、前代の政治を担った新井白石らを退け、自ら政治の舵を取った。
幕府の財政は行き詰まっていた。17世紀には金銀の産出が減り、5代将軍綱吉の時代には寺社の造営や貨幣の改鋳で出費が膨らんだ。加えて、新田の開発で米の取れ高は増えたのに、米の値は他の物の値ほど上がらない。年貢の米を売って暮らす幕府と武士にとって、米が安いことは収入が減ることを意味した。改革の課題は、この財政をどう立て直すかにあった。

吉宗はまず支出を締めた。倹約令を出し、自らも木綿の衣を着て、一日の食事を二度にしたと伝えられる。そのうえで収入を増やす手を次々と打った。1722年には、大名に対して1万石につき100石の米を幕府に差し出させる「上げ米」を始め、その見返りとして参勤交代で江戸にいる期間を1年から半年に縮めた。将軍が大名に頭を下げる形の策で、吉宗自身も恥と感じていたとされ、財政が持ち直すと1730年にやめている。
年貢の取り方も変えた。それまでは役人が毎年田を見て回り、作柄に応じて年貢の量を決めていた(検見法)。これを、過去数年の平均をもとに一定の年貢を決めて取る定免法に切り替えていった。役人の不正を減らし、収入を安定させるためだった。同時に年貢の率そのものも引き上げられ、新田の開発も商人の資金を呼び込んで進めた。幕府の年貢収入は、改革の後半に江戸時代を通じての最高に達している。

人材の登用では、役職に応じた基準の禄高に足りない者を、在職中だけ不足分を足して登用する「足高の制」を設けた。家柄が低くても有能な者を高い役に就けられるようになり、町奉行の大岡忠相はその代表とされる。大岡のもとで江戸の町火消の組が整えられた。裁判の基準をまとめた法典公事方御定書も、この時代に編まれた。
1721年には、評定所の前に目安箱を置いた。誰でも意見や訴えを書いて入れることができ、箱は将軍のもとへ運ばれて、吉宗が自ら開いたという。町医者の小川笙船が、身寄りの無い貧しい病人のための施設を作るよう投書したことから、翌年、小石川養生所が開かれた。
学問の面でも、吉宗は実際に役立つ知識を重んじた。1720年、キリスト教にかかわらない内容であれば、漢文に訳された西洋の書物の輸入を認めた。暦の改良を望んでいた吉宗は、西洋の天文学に関心を持っていたといわれる。さらに青木昆陽と野呂元丈にオランダ語を学ばせた。青木昆陽は飢饉に備えて甘藷(サツマイモ)の栽培を広めたことでも知られる。この細い入口から、のちに『解体新書』を訳した杉田玄白や前野良沢らの蘭学が育っていく。

米の値を支えることには、最後まで苦労した。堂島の米市場を公に認め、米の買い上げも行ったため、吉宗は「米将軍」とも呼ばれた。だが1732年、西日本でウンカの大発生による凶作が起き、多くの餓死者が出た(享保の飢饉と打ちこわし)。翌年には米の値上がりに怒った江戸の町人が米問屋を襲い、江戸で初めての打ちこわしが起きている。
年貢の引き上げは、農村には重くのしかかった。勘定奉行の神尾春央が「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものだ」と言ったという話が伝わる。後の書物に記された伝聞で、本当に言ったかは確かでないが、この時代の取り立ての厳しさを語るものとして広く知られている。各地で百姓一揆も増えていった。

吉宗は1745年に将軍職を子の家重に譲り、その後も大御所として政治に目を配り、1751年に亡くなった。享保の改革は、のちの寛政の改革や天保の改革の手本とされた。一方で、財政の立て直しを年貢の増徴に頼った点は限界とされ、次の田沼時代は、商業に目を向けた別の道を探ることになる。