西南戦争
概要
西郷を担いだ士族の最後の反乱。徴兵された農民の軍が士族に勝ち、武力で政府に抗う道が閉じた。
場所
31.60°N 130.56°E · 日本・鹿児島県(薩摩藩の城下町)
関わった人(2)
西郷隆盛1828年–1877年 · 首領山県有朋1838年–1922年 · 政府軍本文
1873年、朝鮮への使節派遣をめぐって政府が割れ、西郷隆盛は職を辞して鹿児島に帰った(征韓論政変)。西郷を慕う薩摩出身の軍人や警官の多くも、後を追って辞めた。翌1874年、西郷は鹿児島に私学校を開き、若い士族たちに軍事と漢学を教えた。私学校は県下に分校を広げ、その出身者が県の役人や区長に就いた。鹿児島県は、中央の命令がほとんど届かない、独立国のような状態になっていく。
その頃、政府は武士の特権を次々に取り上げていた。1873年の徴兵令で、戦うのは武士の仕事ではなくなった。1876年には帯刀が禁じられ、家禄も一時金の公債に切り替えて打ち切られた。不満を抱いた士族は各地で立ち上がった。1874年の佐賀の乱、1876年の熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱である。いずれも短期間で鎮められたが、鹿児島の動きを政府は最も警戒していた。

1877年1月、政府は鹿児島にある陸軍の弾薬や武器を、船で大坂へ運び出そうとした。これに怒った私学校の生徒たちが、夜のうちに弾薬庫を襲って武器を奪った。同じ頃、警視庁から帰郷していた警官たちが、西郷の暗殺を企てていたとして捕らえられ、拷問の末に「刺殺」の計画を自白したとされる。この自白が本当に暗殺を意味していたのかは、今も分かっていない。
西郷自身が積極的に挙兵を望んだかには議論がある。狩りに出ていた西郷は、弾薬庫襲撃の知らせを聞いて「しまった」と漏らしたと伝えられる。だが西郷は、生徒たちを見捨てなかった。「ならば自分の体を差し上げよう」と言って、担がれる形を受け入れた。名目は、政府に問いただしたいことがある、というものだった。

2月15日、50年ぶりといわれる大雪の中、薩摩軍は鹿児島を発った。最初はおよそ1万3千で、途中で九州各地の士族が加わり、最も多いときには3万近くに達したとされる。政府は征討の命令を出し、陸軍の実質的な指揮は山県有朋が執った。
最初の分岐点は熊本城だった。薩摩軍は、熊本鎮台の兵などおよそ4千が守る城を、一気に落とせると考えていた。徴兵された百姓の兵など相手にならない、と見ていたからである。ところが、司令長官谷干城のもとで、城は50日以上持ちこたえた。

包囲の始まる2日前、熊本城の天守や本丸の御殿が火に包まれて焼け落ちた。守る側が見通しを良くするために自ら火を放ったという説、失火だという説があり、原因は今も分かっていない。攻めあぐねる間に、政府軍は次々と九州へ兵を送り込んだ。
熊本城を救おうと南下する政府軍と、それを阻もうとする薩摩軍が激突したのが田原坂である。3月4日から17日間、雨の中で一進一退の戦いが続いた。薩摩兵の斬り込みに手を焼いた政府は、警官の中から剣の腕の立つ者を集めて抜刀隊を作った。その中には、戊辰戦争で薩摩に敗れた旧会津藩士が多く、恨みを晴らす機会と意気込んだと伝えられる。田原坂の一帯からは、空中で撃ち合った弾丸どうしがぶつかって食い込んだ「行き合い弾」が見つかっている。それほどの弾が飛び交った。
![挿絵「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」フランスの新聞雑誌『ル・モンド・イリュストレ』1877年刊行号[注釈 8]に掲載された速報記事の挿絵。フランスの挿絵画家の手になるもので、西洋式の軍服を纏って椅子に腰掛ける中央の人物が、伝え聞きに基いて描かれたのであろう西郷隆盛。取り巻きがことごとく古風な重装備の武者姿なのは、フランス人の想像である。](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/SaigoWithOfficers.jpg/960px-SaigoWithOfficers.jpg)
政府側は徴兵された農民や町人が主体で、薩摩側は士族である。それでも政府軍は、数と補給と近代兵器で押し切った。政府軍は1日に何十万発もの弾を撃ち、汽船で兵と弾薬を次々に送り込んだ。4月、別の部隊が八代の海岸に上陸して薩摩軍の背後を突き、熊本城の包囲は解かれた。
薩摩軍は人吉、宮崎と退き、8月、延岡の北で包囲された。西郷は軍を解散し、残った数百人とともに可愛岳を越えて包囲を抜け、山中を縫うように鹿児島へ戻った。9月1日、薩摩軍は鹿児島の城山に立てこもる。9月24日の未明、政府軍の総攻撃が始まった。西郷は腰と股に銃弾を受け、側にいた別府晋介の介錯で生涯を終えたと伝えられる。満49歳だった。

戦死者は両軍それぞれ6千を超え、あわせて1万3千あまりに及んだとされる。戦場で傷ついた敵味方を区別なく救うため、佐野常民らが博愛社を作ったのもこのときで、これが後の日本赤十字社になる。戦費は4千万円を超え、政府の1年の税収に迫った。そのための紙幣の乱発がインフレを招き、後の厳しい緊縮財政へとつながっていく。
刀で戦う集団が、銃を持つ徴兵の軍に敗れた。以後、士族が武力で政府に抗う道は閉じ、不満は言論による自由民権運動へと流れていく。翌1878年5月、西郷とともに維新を成し遂げた大久保利通が、東京の紀尾井坂で不平士族に暗殺された(大久保利通の暗殺)。

西郷は賊軍の将として官位を奪われたが、人々の人気は衰えなかった。1889年、大日本帝国憲法の発布にあわせて名誉を回復され、1898年には東京の上野に銅像が建てられた。