できごと

高麗の武臣政変

Military coup in Goryeo
AD1170年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民クマン=キプチャク連合モンゴル系の人びとフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民金(女真)チベットカラハン朝宋西夏スコータイ朝ヒンドゥーと仏教の小国群クメール帝国南詔パーラ朝南詔と大理パガン朝日本プラティーハーラ朝高麗アイヌSenas大越大越ピュー(驃)の諸都市Klachurisモンの諸国チャンパAD1170年開城
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1170年の版図を描いています(28勢力)。

概要

文官に蔑まれてきた武官が、王の行幸の途中で蜂起し、文官を殺し、王を廃した。以後100年、武臣が政権を握り、崔氏が4代60年続く。日本の武家政権と同じ頃に、同じ形が半島で起きた。

場所

開城
37.97°N 126.55°E · 朝鮮民主主義人民共和国(高麗の都)

関わった人(1)

崔忠献AD1149年–AD1219年 · 26年後に握った

本文

高麗は、918年に王建が建てた国だった(高麗の建国)。958年に中国にならって科挙を始めて以来(高麗の科挙)、国を動かすのは、儒教の古典と詩文の試験を通った文官たちになった。武官は文官より一段低く見られた。最高の官職には文官しか就けず、戦のときでさえ、軍の総大将には文官が任じられた。12世紀の初めに北方の女真と戦ったときも、全軍を率いたのは文官だった。武官の家に生まれた者がどれほど手柄を立てても、出世には天井があった。

12世紀の半ばには、その差はさらに目に見える形になっていた。仁宗の時代、王の前で行われた大晦日の儀式で、宰相の金富軾の息子で若い文官の金敦中が、ろうそくの火で武官の鄭仲夫の髭を焼いたと伝えられる。怒った鄭仲夫は金敦中を殴ったが、罰を受けそうになったのは鄭仲夫の側だった。

崔忠献墓誌(東京国立博物館)
崔忠献Wikimedia Commons Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan · CC BY 2.0

続いて王になった毅宗は、詩と宴を好み、文官たちを連れて都の開京の郊外の寺や離宮へ出かけては、夜を徹して遊んだ。そのあいだ、護衛の武官と兵士たちは、寒さと空腹に耐えながら外で待たされた。兵士たちは給料として与えられるはずの土地も十分に受け取れず、不満は積もっていった。

1170年8月、毅宗は開京の東の普賢院への行幸に出た。その途中、王は武官たちに五兵手搏戯と呼ばれる武術の試合をさせた。老いた大将軍の李紹膺が若い相手に敗れて逃げ出すと、文官の韓頼が進み出て、李紹膺の頬を打った。王と文官たちはそれを見て笑った。長年仕えてきた老将軍が、武官よりはるかに若い文官に人前で打たれ、階の下に転げ落ちたのである。

その夜、普賢院に着いたところで、鄭仲夫と、李義方、李高の三人が兵を動かした。王に付き従っていた文官たちは次々に斬られた。都でも、文官の冠をかぶる者は、下級の役人に至るまで一人残らず殺せ、という命令が出されたと『高麗史』は記している。王は廃されて南の巨済島へ流され、弟が明宗として王位に就けられた。3年後、元の王を復位させようとする挙兵が起こると、毅宗は流された地から連れ出されて殺された。

こうして始まった武臣の政権は、内側から争いが絶えなかった。政権の座は、殺すか殺されるかで移った。李高は李義方に殺され、李義方は鄭仲夫の子に殺され、鄭仲夫は若い将軍の慶大升に殺された。慶大升が病で死ぬと、賤民の出の李義旼が実権を握った。重房と呼ばれる武官たちの会議が国政の場となり、王はその上に置かれた飾りにすぎなくなった。

地方では、農民や身分の低い人々の反乱が相次いだ。1176年、公州に近い鳴鶴所という特殊な身分の村の人々が反乱を起こした。1198年には、崔氏の家の奴婢だった万積が、将軍や宰相に生まれつきの種などあろうか、と仲間に呼びかけ、奴婢を集めて主人を殺す計画を立てたが、密告されて殺された。武人が文官を倒したことで、生まれで身分が決まるという秩序そのものが揺らいでいた。

1196年、将軍の崔忠献が李義旼を殺して実権を握ると、ようやく政権は落ち着いた(崔氏政権の始まり)。崔氏は自分の家に政務を執る役所と私兵を置き、王を思いのままに替え、4代62年にわたって高麗を治めた。

武臣の政権が終わりに向かったのは、外からの力による。13世紀の前半、モンゴルが高麗に攻め込むと、崔氏の政権は都を江華島に移して抵抗を続けた。この間に、仏の力で国を守ろうと高麗版大蔵経が彫られている。1258年に崔氏の最後の当主が殺され、その後も別の武臣たちが実権を握ったが、1270年、王がモンゴルと和を結んで開京に戻ると、武臣の政権は100年で幕を閉じた。最後まで抵抗した三別抄の軍は、珍島から済州島へ移って戦い続け、1273年に滅ぼされた。

高麗版大蔵経に関わる図版:Tripitaka Koreana 02
高麗版大蔵経Wikimedia Commons Bernard Gagnon · CC0

ちょうど同じ時代、海を隔てた日本でも、武士が政治の表舞台に出てきていた。平清盛が武士として初めて太政大臣になったのは1167年で(平氏政権)、源頼朝が鎌倉に幕府を開くのは1192年とされる(鎌倉幕府の成立)。高麗の武臣政権と日本の武家政権は、ほぼ同じころに生まれた。ただ、日本の武家が700年近くにわたって政治の担い手であり続けたのに対し、高麗では100年で終わり、その後の朝鮮王朝では、ふたたび文官が武官の上に立つ国の形が長く続いた。

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