富士川の戦い

概要
石橋山で負けた頼朝が房総で兵を集め、鎌倉に入り、富士川で平維盛の追討軍と向かい合った。夜、水鳥が一斉に飛び立った音を夜襲と思って平家が逃げた、と『平家物語』。頼朝は追わずに鎌倉へ帰った。東国を固めることを選んだ。
場所
35.16°N 138.63°E · 静岡県
関わった人(1)
源頼朝AD1147年–AD1199年 · 勝った本文
1180年5月、後白河法皇の皇子の以仁王が、平家を討てという命令を全国の源氏に発して挙兵し、まもなく討たれた(以仁王の挙兵)。その命令は、伊豆に流されて二十年になる源頼朝のもとにも届いた。8月、頼朝は伊豆の目代の山木兼隆の館を襲って挙兵する。しかし数日後、相模の石橋山で、平家方の大庭景親の大軍に大敗した。頼朝はわずかな供と山中に隠れ、敵方の梶原景時が見逃してくれたという話も伝えられる。
頼朝は船で真鶴から房総の安房へ渡った。ここから、頼朝の運命は大きく変わる。房総の有力な武士の千葉常胤や上総広常が、次々に味方に加わったのである。関東の武士たちは、平家に近い者が国の役人や土地の支配で優遇されることに不満を持ち、自分たちの土地を守ってくれる新しい棟梁を求めていた。頼朝は大軍に膨れ上がった軍勢を率いて武蔵を通り、10月、先祖の源頼義ゆかりの地である鎌倉に入った。

一方、京都の平清盛は、頼朝の挙兵を聞いて、孫の平維盛を総大将とする追討の軍を東へ向かわせた。しかし軍の出発は遅れ、進みも鈍かった。この年は西国が日照りに見舞われ、兵糧が集まらない。途中で兵を集めようとしても、思うように集まらなかった。この間に、甲斐の源氏の武田信義らも兵を挙げ、駿河へ攻め込んで、平家方の武士を破っていた。
10月、平家の軍は駿河の富士川の西岸に陣を敷き、東から進んできた頼朝の軍や甲斐の源氏の軍と、川を挟んで向かい合った。『平家物語』によれば、総大将の維盛が、東国の武士の様子を、関東の事情に詳しい斎藤実盛に尋ねると、実盛は、東国の武者は親が死のうが子が討たれようが、その屍を乗り越えて戦う、西国の武者とは比べものにならない、と答えたという。この話に、平家の兵たちは震え上がった。

その夜、富士川の沼に群れていた水鳥が、何かに驚いて一斉に飛び立った。その羽音を、源氏の大軍が夜襲をかけてきたと思い込んだ平家の兵たちは、我先にと逃げ出した。武具も馬も置き捨て、他人の馬に乗って逃げる者、つないだままの馬に乗って杭の周りを回る者まであった、と『平家物語』は描く。こうして平家の軍は、ほとんど戦わないまま崩れ、京都へ逃げ帰った。
この水鳥の話は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にも見える。ただ、当時の貴族の日記などからは、平家の軍はもともと兵が少なく、対陣のあいだにも、多くの兵が源氏の側に寝返ったり逃げたりして、戦える状態ではなかったことがうかがえる。水鳥の羽音は、崩れかけていた軍に最後のきっかけを与えたにすぎなかったのかもしれない。また、実際に平家と向き合っていた主力は、頼朝の軍よりも甲斐の源氏の軍だったとする見方もある。

勝った頼朝は、逃げる平家を追って京都へ攻め上ろうとした。しかし、千葉常胤、上総広常、三浦義澄らは、常陸の佐竹氏など、関東にはまだ従わない勢力が残っている、まず東国を固めるべきだと説いた。頼朝はこれを受け入れて、鎌倉へ引き返した。帰る途中、黄瀬川の陣に、奥州から駆けつけた若者が現れる。頼朝の異母弟の源義経である。兄弟の対面は、のちの軍記物で感動の場面として語られることになる。
鎌倉に戻った頼朝は、11月に佐竹氏を攻めて破り、御家人を統率する侍所を置いた。従ってくれた武士たちの土地を保証し、手柄に恩賞を与える仕組みを作り始める。京都の朝廷の命令ではなく、頼朝が自分の判断で東国の武士たちの土地を認める。これが、のちの鎌倉幕府(鎌倉幕府の成立)の骨組みになった。

富士川で戦わずに逃げ帰った維盛に、清盛は激しく怒ったという。その清盛も、翌1181年に熱病で世を去る。平家は勢いを取り戻せず、1183年には維盛が率いた大軍が北陸の倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に大敗し、平家は都を追われることになる。富士川は、源平の争いの大きな戦いの中では、ほとんど血の流れなかった戦いだった。しかし、東国を固めるという頼朝の選択が、武士の政権の始まりへとつながっていった。