人物

源頼義

Minamoto no Yoriyoshi
AD988年 – AD1075年(享年87・推定)
平安時代重要度 3

概要

頼信の子。平忠常の乱で父と。相模守で坂東の武士を集めた。陸奥守。安倍頼時を12年。飢えて、寒く、黄海で7騎まで減った。清原を頼んで勝った。鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した。1063年。息子義家、義綱、義光。

関わったできごと(1)

前九年の役AD1051年(永承6年) · 将軍

本文

源頼義は988年、源頼信の長男として生まれた。頼信は清和源氏の源満仲の子で、河内国に本拠を置いたことから、この流れは河内源氏と呼ばれる。のちに鎌倉幕府を開く源頼朝は、頼義から5代あとの子孫にあたる。頼義は、東国の武士たちと源氏を結びつけた最初の人だった。

源頼義の肖像
源頼義の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

若いころの頼義は、弓の名手として知られた。1028年、房総半島で平忠常が反乱を起こした。朝廷が送った追討使は3年かけても鎮められなかったが、1031年、頼信が追討使に代わると、忠常は戦わずに頼信に降った。頼義もこの父の出陣に従っている。戦わずして東国の大きな反乱を収めたことで、河内源氏の名は東国の武士のあいだに広まった。

頼義は、坂東の有力な武士だった平直方の娘を妻に迎えた。直方は、頼義の武勇に惚れ込んで娘を嫁がせ、鎌倉にあった自分の館を譲ったと伝えられる。後の時代の書物に見える話だが、これが鎌倉と源氏の結びつきの始まりとされている。1036年ごろ、頼義は相模守になり、東国の武士たちとの主従の関係を深めた。

源頼義墓
源頼義墓Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

1051年、頼義は陸奥守に任じられた。陸奥の奥六郡(いまの岩手県の内陸)では、安倍氏が大きな力を持ち、国司に税を納めず、領域を広げていた。前の陸奥守は安倍氏と戦って敗れていた。頼義が着任すると、まもなく朝廷の大赦があり、安倍頼良は罪を許された。頼良は頼義と同じ読みになるのをはばかって名を頼時と改め、頼義に従った。

だが平和は長く続かなかった。1056年、頼義の任期の終わり近く、陣中で頼義の部下が夜襲を受ける事件が起きた。頼義は頼時の子貞任の仕業と決めつけ、引き渡しを求めた。頼時はこれを拒み、戦いが始まった(前九年の役)。事件が頼義の側の仕組んだものだったという見方もある。

前九年の役に関わる図版:A-38 C0080776
前九年の役Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1057年、頼時は戦いの中で流れ矢に当たって死んだが、跡を継いだ貞任はさらに手ごわかった。その年の冬、頼義は黄海(いまの岩手県一関市)で貞任の軍に大敗した。雪の中で兵は飢え、多くが討たれた。頼義のまわりに残ったのは、長男の源義家ら、わずか6騎だったと『陸奥話記』は伝える。この戦いで、義家は敵の矢を受けながら次々に敵を射落とし、敵からも「八幡太郎」と恐れられたという。

戦いは長引いた。頼義は朝廷から十分な支援を得られず、任期が切れても陸奥にとどまって戦い続けた。最後に頼ったのは、出羽の豪族清原氏だった。1062年、清原武則が大軍を率いて加わると、形勢は一気に変わった。安倍氏の砦は次々に落ち、最後に残った厨川の柵も、火をかけられて陥落した。貞任は討たれた。

安倍氏についていた藤原経清は、もとは陸奥国府の役人で、頼義を裏切って安倍氏の側に走った人物だった。頼義はその裏切りを深く恨んでいた。『陸奥話記』によれば、頼義は捕らえた経清を責め、刃こぼれした刀でゆっくりとその首を斬らせたという。経清の妻だった貞任の妹は、子を連れて清原氏に再嫁した。その子がのちの奥州藤原氏の初代、藤原清衡である。

前九年の役と呼ばれるこの戦いは、実際には12年に及んだ。古い書物では「奥州十二年合戦」とも呼ばれている。頼義は1063年に都へ帰り、褒賞として伊予守に任じられた。戦いに従った東国の武士たちに、頼義は朝廷の恩賞が足りない分を自分の財から与えたと伝えられる。こうして東国の武士たちは、朝廷ではなく源氏の棟梁に従う、という意識を持ちはじめた。

同じ1063年、頼義は戦勝を感謝して、鎌倉の由比の地に、源氏が氏神として信仰する石清水八幡宮の神を迎えて祀った。これがのちの鶴岡八幡宮の始まりで、1180年、鎌倉に入った源頼朝が、それをいまの場所に移した。

頼義の三人の息子は、それぞれ神社で元服した。石清水八幡宮で元服した長男義家は八幡太郎、賀茂神社の次男義綱は賀茂次郎、新羅明神の三男義光は新羅三郎と呼ばれた。晩年の頼義は出家し、1075年に死んだ。数え年で88歳だった。戦で多くの命を奪ったことを悔いて仏道に入った、という話も伝わっている。

陸奥ではその後、清原氏の内紛から後三年の役が起き、義家が介入することになる。頼義が東国の武士と結んだ主従の絆は、義家に受け継がれ、やがて頼朝の鎌倉幕府の成立へとつながっていく。

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