人物

北条氏康

Hōjō Ujiyasu
AD1515年 – AD1571年(享年56・推定)
後北条氏重要度 3

概要

早雲の孫、氏綱の子。河越夜戦で関東の上杉を壊した。武田・今川と三国同盟。謙信に小田原を囲まれて、耐えた。検地と税制で、「民に優しい北条」と後の世に言われた。顔に刀傷が2つ。「向こう傷」。息子氏政に、飯に汁を2度かけるのを見て「毎日のことを量れない者が国を量れるか」と言ったという話。

所属

後北条氏

関わったできごと(1)

河越夜戦AD1546年(天文15年) · 夜襲した

本文

1515年、相模の小田原城主・北条氏綱の長男として生まれた。祖父は伊勢から東国に下って伊豆と相模を手に入れた伊勢宗瑞、のちに北条早雲と呼ばれる人物である(北条早雲)。父の氏綱の代に、一族は鎌倉幕府の執権の家にあやかって伊勢から北条へと姓を改め、武蔵へと勢力を広げていた。後世、鎌倉の北条氏と区別して「後北条氏」と呼ばれる。

北条氏康の肖像
北条氏康の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1530年、16歳の氏康は初陣で、武蔵の小沢原で扇谷上杉氏の軍を破った。幼い頃は臆病で、鉄砲の音に驚いて気を失いかけたという話も伝わるが、のちに勇将として知られる人物の若き日を引き立てる逸話の一つである。顔に二つの刀傷があり、敵に背を見せなかった証として「氏康の向こう傷」と呼ばれた、とも伝えられる。

1541年、父の死で家督を継いだ。27歳だった。当主になった氏康を待っていたのは、四方を敵に囲まれる苦境だった。1545年、駿河の今川義元が、甲斐の武田信玄と組んで、北条が押さえていた駿河の東部・河東の地に攻め込んだ。同じ頃、関東では、関東管領の山内上杉氏、扇谷上杉氏、そして古河公方の足利晴氏が手を結び、北条方の武蔵の河越城を大軍で囲んだ。その数は8万とも言われる。河越城を守っていたのは、氏康の義弟の北条綱成で、わずか3000の兵で半年にわたって持ちこたえた。

氏康は、西の今川に河東の地を譲って和睦し、兵を東に向けた。1546年4月、河越に着いた氏康は、敵に降伏をほのめかす書状を送って油断させたうえで、夜に入って敵の陣に襲いかかった。城からも綱成が打って出た(河越夜戦)。上杉方は総崩れになり、扇谷上杉氏の当主・朝定は討ち死にして、扇谷上杉氏は滅んだ。山内上杉氏の憲政は上野に逃れ、のちに越後の長尾景虎を頼る。北条方の兵は8000だったと軍記物は伝えるが、数や戦いの詳しい経過には誇張があるとみられている。それでも、この一戦で関東の勢力図が塗り替えられたことは確かだった。

1554年、氏康は今川義元、武田信玄と同盟を結んだ。三家はそれぞれの娘を他家に嫁がせ合い、氏康の娘は義元の子の氏真に、信玄の娘は氏康の子の氏政に嫁いだ。駿河の善徳寺で三人の大名が会って盟約を結んだという話があるが、三人が実際に顔をそろえた証拠は無く、後世の創作と考えられている。この同盟で西と北の背後を固めた北条は、関東の経営に力を注ぐことができた。信玄は北の上杉謙信との川中島の戦いに、義元は西へ向かうことになる。

川中島の戦いに関わる図版:BattleKawanakajima
川中島の戦いWikimedia Commons after Katsukawa Shuntei (died in 1824) by Hiroshige (1797-1858) · Public domain

氏康の名を後世に高めたのは、その内政である。代替わりの際に領国の検地を行い、1550年には、それまでさまざまな名目で農民に課されていた雑多な税を廃止して、田畑の貫高に応じた「懸銭」などに整理し、税の負担を軽くした。この年、領国では疫病と飢饉で村を捨てる百姓が相次いでおり、その立て直しのための改革だった。1559年には、家臣の領地とそれに応じて負うべき軍役を一覧にした『小田原衆所領役帳』をまとめた。北条氏は、父の代から使われた虎の朱印を押した文書で命令を出し、印の無い命令には従わなくてよいとして、役人が勝手に百姓から取り立てることを防いだ。百姓が役人の不正を直接訴える道も開かれていた。江戸時代には「北条五代は民を慈しんだ」と語られるようになる。

1559年、氏康は家督を子の氏政に譲ったが、その後も「御本城様」として実権を握り続けた。1561年、上杉憲政を奉じた長尾景虎(のちの上杉謙信)が、関東の諸将を従えて10万とも言われる大軍で小田原城に迫った。氏康は打って出ず、城に籠もって守りを固めた。大軍の補給は続かず、謙信は1か月ほどで兵を引いた。謙信は帰途、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領の職を継いでいる。小田原城はこのあと、1569年に武田信玄に囲まれたときも落ちず、関東最大の堅城として知られるようになる。

晩年、三国の同盟は崩れた。1560年に桶狭間で義元が討たれて今川家が衰えると、1568年、信玄は同盟を破って駿河に攻め込んだ。氏康は怒って武田と手を切り、長年の宿敵だった上杉謙信と同盟を結んだ。1571年10月、氏康は小田原で死んだ。57歳だった。死に臨んで、上杉との同盟は頼りにならない、武田と和を結び直せと言い残したと伝えられ、氏政はその年のうちに武田との同盟を復活させた。

有名な逸話がある。息子の氏政が食事のとき、飯に汁を一度かけ、足りずにもう一度かけた。それを見た氏康は、毎日食べている飯にかける汁の量さえ量れない者が、どうして国や家臣を量れようか、北条家も自分の代で終わりだ、と嘆いたという。これは江戸時代に作られた話とされるが、1590年、氏政と孫の氏直の代に、北条氏は豊臣秀吉の大軍に小田原城を囲まれて降伏し、戦国大名としての北条氏は滅んだ(秀吉の天下統一)。後世の人は、その結末を氏康の嘆きの中に読み込んだのである。

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