『立正安国論』
概要
日蓮が北条時頼に建白した。「法華経を捨てて念仏を信じるから、地震と飢饉と疫病が起きる。改めなければ、内乱と他国の侵略が来る」。念仏者に襲われ、伊豆に流され、龍ノ口で斬られかけ、佐渡へ。14年後、蒙古が来た。「私が言った通り」。
場所
35.32°N 139.55°E · 日本・神奈川県
関わった人(1)
日蓮AD1222年3月30日–AD1282年11月14日 · 建白本文
13世紀の半ば、鎌倉の町は災いに見舞われ続けた。正嘉元年(1257年)8月、大地震が鎌倉を襲い、寺社が倒れ、地が裂けて水が噴き出した。翌年には大風と長雨で作物が実らず、飢饉が全国に広がった。正元元年(1259年)には疫病がはやり、道ばたに死体があふれた。鎌倉幕府(鎌倉幕府の成立)は寺社に祈りを命じたが、災いはやまなかった。
安房国の漁村に生まれた日蓮は、比叡山などで学んだのち、法華経こそが釈迦の教えの真髄だと確信し、鎌倉の松葉ヶ谷に草庵を構えて辻で説法をしていた。日蓮は災いの原因を経典の中に探し、駿河の岩本実相寺で経蔵にこもって一切経を読んだと伝えられる。そして文応元年(1260年)7月16日、39歳の日蓮は、北条氏の家臣宿屋入道を通じて、前の執権北条時頼に一巻の書を差し出した。これが『立正安国論』である。

書は、旅の客と主人の問答の形をとる。客は嘆く。近年、天変地異と飢饉と疫病が天下に満ち、牛や馬が道に倒れ、骸骨が道にあふれている。祈っても何の験も無いのはなぜか。主人は答える。世の人がみな正しい教えに背き、悪い教えに帰依しているから、国を守る善い神々は国を捨てて去り、その隙に魔や鬼がやって来て災いを起こすのだ。
主人が名指しした「悪い教え」は、法然の専修念仏だった(法然の専修念仏)。法然の『選択本願念仏集』が、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えよと説き、法華経をはじめほかの経を捨てさせた。この一つの凶を禁じよ、と主人は迫る。天下の平穏を望むなら、まず国中から正法を謗る者を断てというのである。

日蓮は経典の予言も引いた。『薬師経』は、国が正しい教えを捨てると七つの難が起きると説く。そのうち、疫病、星の異変、日月の異変、季節外れの風雨、日照りの五つはすでに起きた。残るのは二つ、国の内から反逆が起きる「自界叛逆難」と、他国から攻められる「他国侵逼難」である。いま信仰を改めなければ、この二つが必ず来る、と日蓮は警告した。書の結びで、客は主人の言葉に心を改め、正しい教えに帰すと誓う。
時頼は何も答えなかった。それどころか、この書を知った念仏の信者たちは怒り、1260年8月、松葉ヶ谷の草庵を夜に襲った。日蓮は難を逃れたが、翌1261年、幕府は日蓮を伊豆に流した。1263年に許されて戻ると、1264年には故郷の安房の小松原で、念仏の信者だった地頭東条景信の一団に襲われ、弟子が殺され、日蓮も額に傷を負った。

1268年、モンゴル帝国(元)の皇帝フビライの国書が鎌倉に届いた。日本に服属を求める書だった。日蓮は、他国侵逼難が現実になろうとしていると考え、執権北条時宗(北条時宗)や幕府の重臣、鎌倉の大寺の僧たちに11通の書状を送り、『立正安国論』の警告を思い起こさせ、他宗の僧と公の場で対決させよと求めた。幕府はこれを危険な扇動とみた。1271年9月、日蓮は捕えられ、夜中に片瀬の龍ノ口の刑場へ引き出された。日蓮の書いたものや弟子の伝えでは、首を斬られようとしたとき、江の島の方角から光るものが飛んできて、役人たちが恐れおののいたという。日蓮は斬られず、佐渡へ流された。
翌1272年、鎌倉と京都で、執権時宗の異母兄北条時輔らが討たれる内紛が起きた(二月騒動)。日蓮とその門下は、これを自界叛逆難の実現と受けとめた。1274年に許されて鎌倉に戻った日蓮は、幕府の実力者平頼綱に会い、蒙古は今年のうちに来ると告げた。三度諫めて聞き入れられなければ山に入る、という古人の例にならい、日蓮は甲斐の身延山に退いた。その年の10月、元と高麗の軍が対馬、壱岐を経て博多湾に上陸した(文永の役)。

日蓮の門下は、これを予言の的中と信じた。ただし、日蓮が求めたのは他の宗派を国の力で禁じることであり、幕府はそれを採らなかった。モンゴルの来襲は東アジア全体の情勢から来たもので、日蓮の警告とは関わりなく起きたとも言える。災いを他の宗派の罪に帰し、国家に法華経への帰依を迫る主張の激しさは、いまも評価の分かれるところである。
日蓮は1282年に武蔵の池上で死んだ。『立正安国論』は、その後の日蓮の門流で最も大切な書とされた。「正を立てて国を安んずる」という題は、法華経の信仰と国の安泰を結びつける考えの拠り所となり、近代の宗教団体や大学の名にも受け継がれた(創価学会の始まり)。日蓮の自筆の写本は、千葉県市川市の中山法華経寺に伝わり、国宝になっている。