田沼意次
概要
紀州の足軽の子。父が吉宗の江戸入りに従った。9代家重の小姓から側用人、老中。相良5万7000石。商業を税源にした。蝦夷地、印旛沼、長崎、貨幣。息子意知が殿中で佐野政言に斬られ、江戸の人は佐野を「世直し大明神」と呼んだ。家治が死んで失脚、1万石に減らされた。「賄賂政治」の名は定信の側が作った。
関わったできごと(1)
田沼時代AD1772年(安永元年) · 老中本文
田沼意次は1719年、江戸で生まれた。父の意行は紀州藩の足軽の出で、藩主の徳川吉宗に仕えていた。1716年、吉宗が八代将軍として江戸城に入ると、意行も紀州から付き従い、幕臣に取り立てられた。600石の旗本である。足軽の家から、わずか一代で将軍の家来になった。意次が老中にまで上り詰める道は、ここから始まる。

1734年、16歳の意次は、吉宗の長男で後継ぎの家重の小姓になった。家重は生まれつき言葉が不明瞭で、その言うことを聞き取れたのは側近の大岡忠光だけだったと伝えられる。意次はこの家重に気に入られた。1745年に家重が九代将軍になると、意次は側近として出世を続け、1758年には1万石を与えられて大名に列した。この年、美濃の郡上藩の百姓一揆をめぐる裁判に加わっている。1760年、家重は将軍職を子の家治に譲るとき、意次を重く用いるように言い残したとされる。
十代家治のもとで、意次の出世はさらに加速した。1767年に将軍の側近の筆頭である側用人となり、遠江の相良に城を築くことを許された。1772年には老中を兼ねる。最終的な所領は5万7000石。足軽の子が、譜代の名門が占めてきた老中の座に就いたのである。この人の政治が行われた時代を、田沼時代と呼ぶ。

意次の政治の特徴は、年貢の米だけに頼らず、商業から幕府の収入を得ようとしたことにある。家重の父の徳川吉宗は、享保の改革で倹約と新田開発によって米の収入を増やそうとした。だがそれにも限りがあった。意次は、商人の同業組合である株仲間を公に認め、その代わりに運上金や冥加金を納めさせた。銅や真鍮、朝鮮人参などを幕府が管理する座を設けて専売にした。長崎の貿易では、銀や銅を流出させる代わりに、干しアワビやフカヒレなどの海産物を俵に詰めて清へ輸出させた。
1772年には南鐐二朱銀という銀貨を出した。表には、この銀貨八枚で小判一両に換えると刻んである。それまで江戸では金貨、大坂では重さで量る銀が使われ、両替のたびに相場が動いた。銀貨に金の単位で額面をつけることで、金を軸に通貨をまとめようとしたものと評価されている。

開発にも乗り出した。下総の印旛沼と手賀沼を干拓して新田にする工事を始め、仙台藩の医師工藤平助がロシアの南下と交易の可能性を説いた『赤蝦夷風説考』を読むと、1785年から蝦夷地に調査隊を送った。調査隊には最上徳内も加わり、一行は千島の島々やカラフトまで足を延ばした。ロシアとの交易や、蝦夷地の大規模な開墾まで構想していたとされる。
自由な空気の時代でもあった。平賀源内は田沼の知遇を得て鉱山開発などに関わり、杉田玄白らが『ターヘル・アナトミア』を訳して『解体新書』を出したのも、田沼が権力を握っていた時期である。洒落本や黄表紙、狂歌が流行し、江戸の町人文化が花開いた。

しかし、天が味方しなかった。1782年からの冷害に、1783年の浅間山の大噴火が重なり、東北を中心に多くの死者を出す天明の飢饉になった。米の値は上がり、各地で一揆や打ちこわしが起きた。1784年、意次の嫡男で若年寄に取り立てられていた意知が、江戸城の中で旗本の佐野政言に斬りつけられ、数日後に死んだ。動機ははっきりしない。佐野は切腹を命じられたが、たまたま米の値が下がったこともあって、江戸の人々は彼を「世直し大明神」と呼んだ。それほど田沼への反感は強まっていた。
1786年、利根川の大洪水で印旛沼の工事は流された。同じ年の夏、後ろ盾の家治が死ぬと、意次は老中を辞めさせられ、所領を次々に削られた。翌1787年、吉宗の孫の松平定信が老中首座になり、寛政の改革が始まる。相良城は取り壊され、田沼家は孫の代に陸奥の1万石へ移された。意次は1788年、江戸で死んだ。数えの70歳。

田沼の名は長く「賄賂政治」と結びつけられてきた。意次が大名や役人から多くの贈り物を受けていたのは事実だが、それは当時の慣行で、意次だけのことではなかった。腐敗の時代という像を作ったのは、意次を追い落とした定信の側の記録である。もっとも、定信の締めつけが厳しくなると、白河の清い水に魚も住めず、元の濁った田沼が恋しいと詠んだ狂歌が出回った。大正時代に辻善之助が田沼の時代を見直す研究を出し、戦後は大石慎三郎らが、商業に目を向けた改革者として田沼を描き直した。いまの教科書は、その両方の顔を載せている。
城を失った相良の町では、意次は町を整え、街道を通した殿様として語り継がれている。