秀吉の天下統一
概要
100年続いた戦国が終わった。刀狩と検地で武士と農民を分け、身分を固定する。
場所
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府
関わった人(3)
豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 当人石田三成AD1560年–AD1600年11月6日(慶長5年10月1日) · 奉行黒田官兵衛AD1546年12月22日–AD1604年4月19日 · 軍師本文
1590年7月、小田原城の北条氏が降伏した。関東の大半を百年近く治めてきた家が、3か月あまりの包囲の末に城を明け渡した。続けて東北の大名の処分(奥州仕置)が進められ、日本列島の大名はすべて一人の人物に従う形になった。応仁の乱から数えて、およそ百二十年ぶりのことである。
その人物、豊臣秀吉の出自ははっきりしない。尾張の百姓の子とも、足軽の子とも言われる。確かなのは、名のある家の出ではなかったことだ。織田信長に仕えて出世し、1582年の本能寺の変で主君が倒れると、中国地方から急いで引き返して山崎の戦いで明智光秀を討った。この速さが、信長の後継を争う場で彼を一歩先に立たせた。

そこからの8年は、戦と交渉の連続だった。1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼし、同じ年に大坂城の築城を始める。翌年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康に局地戦で敗れたが、政治の駆け引きで家康を臣従させた。1585年に関白となり四国を、1587年には九州の島津氏を降した。武力だけでなく、朝廷の権威を借りて「天下の秩序に逆らう者」を討つ形を取ったところに、信長との違いがある。大名どうしの私戦を禁じた命令(いわゆる惣無事令)がその柱とされてきたが、これを一つの法令とみるかどうかには研究者のあいだで議論がある。
最後に残ったのが関東の北条氏だった。秀吉は20万を超えるとされる大軍で小田原を囲み、城を見下ろす山に石垣の城を築いて、長期戦の構えを見せた。一夜で城が現れたように見せたという話は、後世に「一夜城」として語られる。軍師の黒田官兵衛が城に入って開城を説いたと伝えられ、当主の北条氏直は助命されて高野山へ送られ、父の氏政らは切腹した。遅れて小田原へ参じた伊達政宗が、死装束で現れて許されたという逸話も、この陣のものである。北条の旧領には家康が移され、これが後の江戸の始まりになる。秀吉自身は、大坂城に加えて京都に壮大な邸宅の聚楽第を築き、1588年にはそこへ後陽成天皇を迎えて、大名たちに自分への忠誠を誓わせた。天皇の前で誓わせることで、主従の関係を朝廷の秩序の中に組み込んだのである。

統一の中身として大きいのは、戦いよりも二つの政策だった。一つは太閤検地である。1582年の山崎の戦いの直後から、征服した土地で順に田畑を測らせた。測り方と枡をそろえ、田畑の生産力を米の量(石高)で表す。長さの単位もそろえ、6尺3寸四方を1歩、300歩を1反とした。それまで広く使われていた360歩の1反より小さく、同じ田でも反数が増えて、年貢の基準が引き上げられた形になる。そして一つの土地には実際に耕す一人の百姓だけを登録した。それまでは一枚の田に、領主、荘園の名残の権利者、地侍など、何重もの取り分が重なっていた。その中間の取り分を整理し、年貢を納める者と耕す者を一致させたのである。実務を担った奉行の一人が石田三成で、算用に明るい官僚として重く用いられた。もっとも、全国で同じ精度の測量が行われたわけではなく、大名の申告に頼った地域も多い。
もう一つが1588年の刀狩令である。百姓が刀・弓・槍・鉄砲を持つことを禁じ、集めた武器は京都で造る大仏(方広寺)の釘やかすがいにすると説明した。百姓は来世まで救われる、という触れ込みだった。実際には、一揆の力を奪うことが狙いだったと考えられている。百姓の家から武器が完全に消えたわけではないが、武器を持つことが武士の特権になっていった。

1591年には、武家に仕える者が百姓や町人になること、百姓が田畑を捨てて商いに出ることを禁じる命令が出された。翌年には村ごとに家と人を書き上げさせている。検地、刀狩、この人の掃き出しの命令がそろったことで、戦うのは武士、耕すのは百姓、という区分が制度として形になった。
それまで、その境目は曖昧だった。戦国の軍勢には村から駆り出された者が大勢いたし、地侍は平時には田を耕していた。秀吉自身が、その曖昧さのなかを這い上がってきた人間である。自分が上ってきた梯子を、自分で外したことになる。
統一は長くは続かなかった。秀吉はすぐに大陸へ目を向け、1592年から文禄・慶長の役を起こす。全国の大名を動員したこの戦争は成果なく終わり、1598年に秀吉が死ぬと軍は引き揚げた。跡継ぎの秀頼はまだ6歳で、政権の主導権は家康へ移っていく。2年後の関ヶ原の戦いで、豊臣の天下は事実上終わった。

それでも、秀吉が作った枠組みは残った。石高で大名の格と軍役を決める仕組み、村を単位に年貢を納めさせる仕組み、武士と百姓を分ける身分の線は、そのまま江戸幕府の成立に引き継がれた。江戸時代の大名が「何万石」で呼ばれるのは、この検地に始まる。天下を取ったのは秀吉一代だったが、天下の形は二百数十年続いたのである。