応仁の乱

概要
京都が11年焼かれ、幕府の権威が失われた。ここから100年の戦国時代に入る。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(2)
雪舟AD1420年–AD1506年頃 · この戦乱の時期に明へ渡る足利義政AD1436年1月20日–AD1490年1月27日 · 将軍本文
室町幕府の将軍の力は、15世紀の半ばにはすでに揺らいでいた。1441年、強い権力をふるった6代将軍足利義教が、有力な守護大名の赤松満祐に自邸の宴で殺された(嘉吉の乱)。将軍が家臣に殺されても、すぐに討つ者がいなかった。その後は幼い将軍が続き、政治は有力な守護大名たちの話し合いと力関係で動くようになる。各地の守護大名の家では、跡継ぎをめぐる争いが絶えず、そのたびに幕府の有力者がどちらかに肩入れした。
8代将軍の足利義政は、政治よりも庭園や書画、茶の湯を好んだ人として知られる。跡継ぎの男子に恵まれなかった義政は、1464年、出家していた弟を還俗させて義視と名乗らせ、後継ぎに定めた。ところが翌年、妻の日野富子が男子を産んだ。のちの義尚である。わが子を将軍にしたい富子と、すでに後継ぎに決まった義視とのあいだに、深い溝ができた。

将軍の後継争いと、有力守護大名の家督争いが重なった。幕府の要職である管領を出す名門の畠山家と斯波家では、それぞれ二人の候補が家督を争っていた。そこへ、幕府の実力者だった細川勝元と山名宗全という二人の大名が、それぞれ違う候補を後押しした。山名宗全は勝元の妻の父でもあったが、二人は勢力を争う関係になっていた。どの争いも、どちらかの陣営に頼ることで決着をつけようとした結果、すべてが二つの大きな陣営に吸い寄せられていった。
1467年の正月、畠山家の二人が、京都の上御霊社の森で戦った。これが乱の始まりとされる。5月には全面的な戦いになり、細川方は将軍の御所を押さえて東軍、山名方はその西に陣を張って西軍と呼ばれた。いまの京都の「西陣」という地名は、このとき西軍が陣を置いたことに由来する。軍記物の『応仁記』は、東軍16万、西軍11万と書いているが、これは大きく誇張された数とみられる。

東軍と西軍に分かれ、京都で11年戦った。だが、陣営の組み合わせはその間にも入れ替わった。はじめ東軍にいた義視は、のちに西軍へ移って、西軍の将軍のように担がれた。将軍家そのものが、二つに割れたことになる。西軍には、周防・長門を本拠とする大内政弘が大軍を率いて加わり、戦いはさらに長引いた。
決着がつかなかった。双方の主要人物が次々に死に、なんとなく終わる。1473年には、山名宗全と細川勝元が、数か月のうちに相次いで病死した。義政はその年のうちに、9歳の義尚に将軍職を譲った。それでも戦いは続き、ようやく1477年、大内政弘が領国へ引き揚げ、西軍の大名たちもそれぞれの国へ帰って、乱は終わった。勝者はいなかった。

戦いの中で目立つようになったのが、足軽と呼ばれる身軽な歩兵たちだった。正規の武士ではない雇われの兵で、敵の陣を焼き、寺社や公家の屋敷を略奪してまわった。太政大臣を務めた学者の一条兼良は、足軽は前代未聞の悪党だと嘆いている。戦いは、名のある武士どうしの一騎討ちから、雇われた大勢の兵による放火と略奪の戦いに変わっていった。
京都が焼けた。とくに北側の上京では、公家や武家の屋敷、多くの寺社が焼け落ち、平安京以来の貴重な建物や書物、宝物が失われた。商工業者の多い南の下京は、比較的被害が少なかったとされる。

公家が地方へ避難した。都を逃れた公家や僧侶は、地方の大名のもとに身を寄せた。とりわけ大内氏の山口は「西の京」と呼ばれるほど栄えた。連歌師の宗祇は各地を旅して連歌を広め、画僧の雪舟は乱が始まった年に明へ渡り、帰国後は大内氏の庇護を受けながら各地で絵を描いた。それが、京都の文化を地方へ広げる結果になった。
幕府の権威が失われた。将軍が命じても、誰も従わない。守護大名も、自分の領国を守るために帰る。京都にいるあいだに、領国では留守を預かる守護代や地元の武士である国人たちが力を伸ばしていた。

そして、その守護大名をその家臣が倒すという事態が各地で起きる。下剋上になる。1485年には、南山城の国人と農民たちが、両畠山の軍を国から追い出して自分たちで国を治め(山城国一揆)、1488年には、加賀の一向宗の門徒たちが守護を倒して、以後100年近く自分たちの国を保った(加賀の一向一揆)。関東では、素性のはっきりしない北条早雲が伊豆と相模を奪い、戦国大名の先駆けとなる。
ここから100年、戦国時代に入る。ただし、どこからを戦国時代とするかには説があり、1493年に有力者の細川政元が将軍を廃した明応の政変を始まりとする見方も有力になっている。応仁の乱が、すぐにすべてを変えたわけではない。

乱のあと、義政は京都の東山に山荘を営み、晩年をそこで過ごした(銀閣と東山文化)。のちに銀閣と呼ばれるその建物と庭、書院の造りや茶の湯、生け花は、東山文化と呼ばれ、いまの日本の住まいと美意識の源の一つになっている。政治に背を向けた将軍が、後の世に最も長く残るものを作った。
京都では、いまも「先の戦争」といえばこの乱を指すという話がある。半ば冗談の言い回しだが、都の人々がそれほど長くこの戦乱を記憶してきたことを物語っている。2016年には、この乱を扱った新書がベストセラーになり、勝者も敗者もはっきりしない分かりにくい戦争に、あらためて光が当たった。