斎藤道三
概要
山城の油売りから美濃の国主になった、と伝える。近年は父と2代の仕事。守護土岐頼芸を追い出して美濃を取った。「美濃の蝮」。娘の濃姫を信長に嫁がせ、正徳寺で信長に会って「わが子らは信長の門前に馬をつなぐことになる」と言った。息子義龍に長良川で殺された。信長に美濃を譲る、という遺言状がある。
本文
生まれた年ははっきりしない。1494年頃とする説が広く知られているが、確かな根拠は無い。江戸時代に書かれた『美濃国諸旧記』などは、その一生をこう語る。京の妙覚寺の僧が還俗して松波庄五郎と名乗り、油売りになった。漏斗を使わずに一文銭の穴から油を注いでみせる芸で評判をとり、美濃に入って武士に取り立てられ、主家を次々に乗っ取って、ついには守護の土岐氏を追い出して美濃一国の主になった。一介の商人が下剋上で国を奪った、戦国時代を象徴する物語である。人々は彼を美濃の蝮と呼んだ、とも語られる。

だが、この話は一人の人生ではなかったらしい。1960年代、岐阜県の歴史を編むための調査で、近江の大名六角承禎が1560年に家臣へ出した書状が注目された。そこには、道三の父の新左衛門尉が京の妙覚寺の僧から美濃へ来て、長井氏に仕えて頭角を現したこと、その子が長井の家を奪い、さらに守護代の斎藤の名を名乗るようになったことが書かれていた。いまでは、僧から武士に転じたのは父で、守護代の家を継ぎ、守護を追うところまで進めたのが子の道三だった、と父子2代の出世と考えるのが一般的である。油売りだったのが父なのかどうかも、確かではない。
道三は長井規秀、のちに斎藤利政と名乗った。道三は出家してからの名である。美濃の守護土岐氏は、一族の内紛と家臣の争いで力を失っていた。道三はその中で、守護の土岐頼芸を担いで実権を握り、やがて頼芸そのものを国から追い出した。追放の年は1542年とされることが多いが、もっと遅いとする説もある。頼芸はその後も隣国の力を借りて美濃に戻ろうとし、争いは長く続いた。
美濃を狙ったのは尾張の織田信秀だった。1540年代の半ば、信秀は大軍で美濃に攻め込み、稲葉山城の下まで迫ったが、道三は城下の加納口で織田軍を破り、多くの将兵を討ち取った。それでも両家の争いは決着せず、やがて和睦が結ばれた。その証として、道三の娘の帰蝶(濃姫)が信秀の嫡男、織田信長に嫁いだ。
1553年、道三は尾張の富田にある正徳寺で、娘婿の信長と会った。その様子は信長の家臣が書いた『信長公記』に詳しい。うつけ者と噂される婿を見てやろうと、道三は町はずれの小屋に隠れて行列をのぞいた。信長は髪を茶筅に結い、湯帷子の袖を外し、腰に火打ち袋や瓢箪をぶら下げた異様な姿で馬に乗っていた。ところが従えている兵は長い槍を500本、弓と鉄砲を500挺も持っていた。寺に着いた信長は、屏風の陰で髪を結い直し、正装に着替えて道三の前に現れた。
![斎藤道三像 (常在寺蔵の肖像画を東京大学史料編纂所が模写したもの) [注 1]](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Saito_Dosan1.jpg)
会見のあと、道三は家臣に、自分の子どもたちは、いずれあのたわけの門前に馬をつなぐことになるだろう、と言ったという。家来として仕える身になる、という意味である。『信長公記』の伝える話で、信長の側の記録であることは割り引いて読む必要があるが、道三が婿の器量を早くから見抜いていたことを示す場面として名高い。
1554年頃、道三は家督を長男の義龍に譲り、剃髪して道三と号した。ところが親子の仲は急速に悪くなった。道三は義龍を疎んじ、弟たちをかわいがって、義龍を廃しようとしたと言われる。義龍の母は、もと土岐頼芸の側室で、義龍は実は頼芸の子だという噂もあった。後世の書物が伝える話で、確かめようはない。1555年、義龍は病を装って弟二人を呼び寄せ、殺した。道三は城を出て、義龍との戦いに備えた。
1556年4月(新暦5月28日)、長良川の河原で親子は戦った。伝えられる兵の数は、義龍の軍が1万7千余り、道三の軍が2千7百余り。美濃の国衆の多くは義龍についた。下剋上で国を取った道三を、家臣たちは信じていなかったのである。道三は討ち取られ、首を取られた。60代だったと見られる。信長は舅を救おうと兵を出したが、間に合わずに引き返した。
道三は戦いの前日、美濃の国を信長に譲るという書状を書いた、と伝えられる。その写しが残っているが、本物かどうかは議論がある。義龍はその後も信長と争った。その間に信長は尾張に攻め込んだ今川義元を討ち取っている(桶狭間の戦い)。義龍自身は1561年に30代半ばで病死した。跡を継いだ子の龍興は若く、家臣の離反が続いた。1567年、信長は稲葉山城を落として美濃を手に入れ、城下の名を岐阜と改めて、ここを天下取りの拠点にした。道三の言葉どおり、斎藤の家は信長に滅ぼされた。

道三の一生は、長く一代の下剋上の物語として語られてきた。司馬遼太郎の小説『国盗り物語』もこの筋に沿っている。史料が見つかって、物語は父と子の二代のものに書き換えられた。それでも、守護を追い、婿の才を見抜き、最後は自分の子に討たれたという後半生は、戦国の世の裏表をよく映している。