概要
山城の油売りから美濃の国主になった、と伝える。近年は父と2代の仕事。守護土岐頼芸を追い出して美濃を取った。「美濃の蝮」。娘の濃姫を信長に嫁がせ、正徳寺で信長に会って「わが子らは信長の門前に馬をつなぐことになる」と言った。息子義龍に長良川で殺された。信長に美濃を譲る、という遺言状がある。
本文
斎藤利政。山城の油売りの松波庄五郎が、美濃に来て、僧になり、油売りになり、武士になり、美濃の守護代斎藤の名を継ぎ、守護土岐頼芸を追い出して国主になった、と『美濃国諸旧記』は言う。「美濃の蝮」。
1960年代に見つかった史料(六角承禎の書状)で、これは2代の話だと分かった。父の長井新左衛門尉が油売りから武士になって長井の名を継ぎ、息子の利政が斎藤を継いで、土岐を追った。
1542年、土岐頼芸を追放した。1547年、信長の父信秀が美濃を攻めて、加納口で大敗した。翌1548年、和睦して、娘の帰蝶(濃姫)を信長に嫁がせた。1553年、正徳寺。道三は信長を見に行った。うつけと聞いていた信長が、正装で現れ、鉄砲500と長槍を連れていた。「わが子どもは、いずれ信長の門前に馬をつなぐことになるだろう」。
1554年、息子義龍に家督を譲った。義龍は土岐頼芸の子だと噂された(母が頼芸の側室だった)。道三は義龍を疎み、弟たちを愛した。義龍は弟2人を殺した。1556年4月、長良川。道三2500、義龍1万7000。道三は死んだ。63歳。首は義龍の家臣が取った。
死ぬ前、信長に美濃を譲るという遺言状を書いた、と伝える。信長は救援に来たが、間に合わなかった。義龍は5年で死に、その子龍興を1567年に信長が追って、美濃を取った。稲葉山を岐阜に。道三の遺言は、11年後に実現した。