できごと

由井正雪の乱

Keian Uprising
AD1651年(慶安4年)
重要度 3
ロシア帝国スペイン帝国中央アジアの諸ハン国清チベットチュクチ明の滅亡後の軍閥アユタヤ朝Avaシャン諸邦Koryaks日本大越朝鮮王朝Itelmenラオスの諸国大越フィリピンカンボジアLan NaアイヌモシリAD1651年(慶安4年)江戸
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1651年(慶安4年)の版図を描いています(21勢力)。

概要

家光が死んだ年。改易で大名が減り、浪人が50万人いた。軍学者の由井正雪が、丸橋忠弥らと江戸・駿府・京都で同時に火をつけて幕府を倒す計画を立て、密告されて、駿府で自害した。幕府は末期養子を認めて、浪人を増やさないように改易を減らした。「武断」から「文治」へ。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

由井正雪AD1605年–AD1651年9月10日 · 計画した

本文

江戸幕府は、開かれてから最初の半世紀、大名を厳しく取り潰した。関ヶ原の戦いで西軍についた大名の領地を奪ったのに始まり、武家諸法度に背いた、城を無断で直した、跡継ぎがいない、といった理由で、家康、秀忠、家光の三代のあいだに、一説に百三十家ほどの大名が改易された。とりわけ重かったのが、跡継ぎの決まりである。大名が子のないまま急に死にかけて、その場で養子を立てる「末期養子」は認められず、跡継ぎを決めずに死ねば家は断絶した。

大名が取り潰されると、その家臣は主を失って浪人になる。大坂の陣で豊臣方についた者、島原の乱に加わった者もいた。浪人の数は、17世紀の半ばには数十万人にのぼったと言われる。新しい仕官の口はほとんど無く、彼らの多くは仕事を求めて江戸に集まり、困窮していた。武士の誇りを捨てきれないまま食べていけない者たちの不満は、世の中の大きな火種になっていた。

大坂の陣に関わる図版:Osakarakuzyou (cropped)
大坂の陣Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

由井正雪の生まれは、はっきりしない。駿府の染物屋の子とも、駿河の由比の出とも言われる。江戸に出て楠木正成の流れをくむと称する軍学を学び、神田に張孔堂という塾を開いた。弁舌に優れ、門人は数千人とも伝えられる。そこには浪人だけでなく、大名の家臣も出入りしていた。正雪は、浪人たちの不満を受け止める中心になっていった。

1651年4月、三代将軍の徳川家光が48歳で死んだ。跡を継ぐ家綱はまだ11歳だった。幼い将軍のもとで幕府が揺らぐこの時を、正雪たちは好機と見た。計画に加わったのは、槍の名手として知られた丸橋忠弥、大坂の金井半兵衛、京の熊谷三郎兵衛らである。江戸では丸橋が火薬庫に火を放ち、町に火をつけて混乱を起こし、駆けつけてくる幕府の重臣を討って江戸城を奪う。駿府では正雪が、家康をまつる久能山を押さえて、そこに蓄えられているとされた金を奪う。同時に京と大坂でも兵を挙げる。そういう計画だったと伝えられる。

由井正雪
由井正雪Wikimedia Commons 小川一真 · Public domain

計画は、仲間からの密告で漏れた。7月23日、江戸で丸橋忠弥が捕らえられた。その数日前に江戸を出て駿府に向かっていた正雪は、7月26日、泊まっていた宿を駿府の町奉行の手勢に囲まれ、仲間とともに自害した。47歳だったとされる。大坂の金井も自害し、丸橋らは磔にされ、関わった者の一族も処刑された。

正雪の荷物の中からは、紀州藩主の徳川頼宣の印の押された書状が見つかった。家康の子で、気性の荒さで知られた大名である。書状は正雪が偽って作ったものとされ、頼宣は罪には問われなかったが、疑いを受けて長く国元に帰ることを許されなかったと言われる。正雪は遺書の中で、自分たちの企ては将軍に背くためではなく、幕府の政治の誤りを正し、困窮する浪人たちを救うためだったと訴えた。

事件は幕府に衝撃を与えた。家綱を支えた叔父の保科正之や、老中たちは、浪人を生み出す政策そのものを見直した。同じ1651年の12月、幕府は、50歳未満の大名であれば、死の間際に養子を願い出ても家を継がせることを認めた。末期養子の禁の緩和である。これによって大名の取り潰しは目に見えて減り、新たに浪人が生まれることも少なくなった。江戸の町の浪人たちの取り締まりも強められた。翌年にも、浪人が老中を襲おうとした計画が発覚している。

幕府はその後、1663年に主君の死に家臣が殉じて腹を切る殉死を禁じ、大名から人質を取る制度も1665年にやめた。武力で大名を押さえつける政治から、法や儀礼によって秩序を保つ政治への移り変わりは、のちに「武断政治から文治政治へ」と呼ばれる。由井正雪の乱は、その曲がり角に起きた出来事として、教科書に記されている。

正雪と丸橋忠弥は、後世、芝居や講談の主人公になった。幕府を倒そうとした者を表立って描くことは難しく、物語は時代や名前を変えて語られた。明治の初めに河竹黙阿弥が書いた歌舞伎の『慶安太平記』は、丸橋忠弥が江戸城の堀の深さを石を投げて測る場面で知られる。江戸の人々は、世の中に不満を抱いて立ち上がり、敗れていった者たちの物語を好んだのである。

動画(1)

100 文治政治への転換 日本史ストーリーノート第11話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第100講「文治政治への転換」

同じ時代のできごと

リュッツェンの戦いAD1632年11月16日ガリレオの異端審問AD1633年ヴァレンシュタインの暗殺AD1634年2月25日アカデミー・フランセーズの創設AD1635年首に巻く布AD17世紀参勤交代の制度化AD1635年(寛永12年)丙子胡乱AD1636年チューリップ・バブル1636年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1651年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →