由井正雪の乱
概要
家光が死んだ年。改易で大名が減り、浪人が50万人いた。軍学者の由井正雪が、丸橋忠弥らと江戸・駿府・京都で同時に火をつけて幕府を倒す計画を立て、密告されて、駿府で自害した。幕府は末期養子を認めて、浪人を増やさないように改易を減らした。「武断」から「文治」へ。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
由井正雪AD1605年–AD1651年9月10日 · 計画した本文
江戸幕府は、開かれてから最初の半世紀、大名を厳しく取り潰した。関ヶ原の戦いで西軍についた大名の領地を奪ったのに始まり、武家諸法度に背いた、城を無断で直した、跡継ぎがいない、といった理由で、家康、秀忠、家光の三代のあいだに、一説に百三十家ほどの大名が改易された。とりわけ重かったのが、跡継ぎの決まりである。大名が子のないまま急に死にかけて、その場で養子を立てる「末期養子」は認められず、跡継ぎを決めずに死ねば家は断絶した。
大名が取り潰されると、その家臣は主を失って浪人になる。大坂の陣で豊臣方についた者、島原の乱に加わった者もいた。浪人の数は、17世紀の半ばには数十万人にのぼったと言われる。新しい仕官の口はほとんど無く、彼らの多くは仕事を求めて江戸に集まり、困窮していた。武士の誇りを捨てきれないまま食べていけない者たちの不満は、世の中の大きな火種になっていた。

由井正雪の生まれは、はっきりしない。駿府の染物屋の子とも、駿河の由比の出とも言われる。江戸に出て楠木正成の流れをくむと称する軍学を学び、神田に張孔堂という塾を開いた。弁舌に優れ、門人は数千人とも伝えられる。そこには浪人だけでなく、大名の家臣も出入りしていた。正雪は、浪人たちの不満を受け止める中心になっていった。
1651年4月、三代将軍の徳川家光が48歳で死んだ。跡を継ぐ家綱はまだ11歳だった。幼い将軍のもとで幕府が揺らぐこの時を、正雪たちは好機と見た。計画に加わったのは、槍の名手として知られた丸橋忠弥、大坂の金井半兵衛、京の熊谷三郎兵衛らである。江戸では丸橋が火薬庫に火を放ち、町に火をつけて混乱を起こし、駆けつけてくる幕府の重臣を討って江戸城を奪う。駿府では正雪が、家康をまつる久能山を押さえて、そこに蓄えられているとされた金を奪う。同時に京と大坂でも兵を挙げる。そういう計画だったと伝えられる。

計画は、仲間からの密告で漏れた。7月23日、江戸で丸橋忠弥が捕らえられた。その数日前に江戸を出て駿府に向かっていた正雪は、7月26日、泊まっていた宿を駿府の町奉行の手勢に囲まれ、仲間とともに自害した。47歳だったとされる。大坂の金井も自害し、丸橋らは磔にされ、関わった者の一族も処刑された。
正雪の荷物の中からは、紀州藩主の徳川頼宣の印の押された書状が見つかった。家康の子で、気性の荒さで知られた大名である。書状は正雪が偽って作ったものとされ、頼宣は罪には問われなかったが、疑いを受けて長く国元に帰ることを許されなかったと言われる。正雪は遺書の中で、自分たちの企ては将軍に背くためではなく、幕府の政治の誤りを正し、困窮する浪人たちを救うためだったと訴えた。
事件は幕府に衝撃を与えた。家綱を支えた叔父の保科正之や、老中たちは、浪人を生み出す政策そのものを見直した。同じ1651年の12月、幕府は、50歳未満の大名であれば、死の間際に養子を願い出ても家を継がせることを認めた。末期養子の禁の緩和である。これによって大名の取り潰しは目に見えて減り、新たに浪人が生まれることも少なくなった。江戸の町の浪人たちの取り締まりも強められた。翌年にも、浪人が老中を襲おうとした計画が発覚している。
幕府はその後、1663年に主君の死に家臣が殉じて腹を切る殉死を禁じ、大名から人質を取る制度も1665年にやめた。武力で大名を押さえつける政治から、法や儀礼によって秩序を保つ政治への移り変わりは、のちに「武断政治から文治政治へ」と呼ばれる。由井正雪の乱は、その曲がり角に起きた出来事として、教科書に記されている。
正雪と丸橋忠弥は、後世、芝居や講談の主人公になった。幕府を倒そうとした者を表立って描くことは難しく、物語は時代や名前を変えて語られた。明治の初めに河竹黙阿弥が書いた歌舞伎の『慶安太平記』は、丸橋忠弥が江戸城の堀の深さを石を投げて測る場面で知られる。江戸の人々は、世の中に不満を抱いて立ち上がり、敗れていった者たちの物語を好んだのである。