楽市楽座
概要
座の特権と関所の通行料を廃し、誰でも商えるようにした。中世を通じて自治的だった市の自由を、大名が自分の城下に囲い込んだ、とも読める。
場所
35.15°N 136.14°E · 日本・滋賀県
本文
中世の日本の商いには、座があった。同じ品を扱う商人や職人の集まりで、寺社や公家を本所として仰ぎ、座役という金を納める代わりに、その品を作り売る特権を守ってもらう。大山崎の油座は石清水八幡宮を本所とし、畿内の油の売り買いを広く押さえていた。座に入っていない者が勝手に商えば、品物を差し押さえられることもあった。道には寺社や領主の関所が並び、荷を運ぶたびに通行料を取られた。
戦国時代、大名たちは自分の城の下に人と商いを集めようとした。その手段の一つが楽市だった。「楽」は、縛りが無く自由である、という意味になる。記録に残る最も早い例は、1549年に近江の六角氏が城下の市について出した文書とされる。楽市は信長だけのものではない。駿河の今川氏は1566年に富士大宮の市を楽市とし、相模の北条氏は1578年に世田谷の市を楽市にした。いまも東京の世田谷で年末と年始に開かれるボロ市は、この市に始まるとされる。

織田信長は、美濃を取った1567年、岐阜城下の加納の市に制札を掲げ、ここに移り住む者の自由な往来を保障し、借金の取り立てや諸々の負担を免じた。翌年の制札には「楽市楽座」の語が現れる。座の特権を認めず、誰でも商ってよい、という意味になる。信長はまた、1568年に足利義昭を奉じて上洛した後、領国の中の関所を次々に廃した。家臣の太田牛一が書いた『信長公記』は、これを天下のため、行き来する旅人を憐れんでのことと記し、人びとが喜んだと伝える。関所の収入を失う寺社や公家には痛手だったが、軍勢や物資を速く動かすには都合がよかった。
1577年、信長は築いている最中の安土城の城下町に、13か条の掟を与えた。最初の条で、ここを楽市とし、座の特権や諸々の課役を免除すると定める。街道を行き来する商人は、上の街道を通らず、必ずこの町に泊まれ、という条もある。城下に移り住んだ者は、よそから来た者でも元からの住人と同じに扱う。普請の負担を免じ、借金の帳消しを命じる徳政の対象からも外す。喧嘩や押し売り、押し買いは禁じる。自由を与える条と、町に人と物を集めるための条が、同じ掟に並んでいる。

教科書では、楽市楽座は、古い特権を打ち破って自由な商業を開いた、信長の進んだ政策として書かれてきた。しかし信長は、すべての座を廃したわけではない。自分に従う座の特権は認め続けた例も多い。楽市は、おもに新しく作る城下町に人を呼ぶための政策だった、と見る研究が増えている。
網野善彦の読み方は、さらに違う角度からのものだった。中世の市は、もともと領主の支配が及ばない「無縁」の場、誰の縁にも属さない場所だった。市では俗世の貸し借りや主従の縛りが切れ、逃げ込んだ者もそこでは追われない。網野は、楽という語そのものがそうした自由を指していたと考えた。そこでの自由は、誰かに与えられたものではない。楽市の掟は、その古い自由を追認しながら、同時にそれを大名の城下に囲い込み、自分が許した自由に変えた、という見方になる(物語「『日本の歴史をよみなおす』で読む日本」)。
安土の城下は、1582年の本能寺の変の後、城とともに衰えた。だが、城下に商人と職人を集め、座と関所の縛りを外して商いを盛んにするやり方は、豊臣秀吉に引き継がれた。秀吉は京都などで座の廃止を進め、全国で関所を撤廃していく。

その先で、商人の自由は別の枠に収められていった。江戸時代、商人は身分の一つとして住む場所を決められ、やがて幕府が認めた株仲間が、品ごとの独占を再び担うようになる。座を廃して開いた自由は、新しい支配者が許す範囲の自由として、制度の中に組み直された。