箱根の関所
概要
幕府が東海道の峠に置いた。目的は入り鉄砲と出女を止めることにある。武器が江戸へ入るのを防ぎ、大名が人質として江戸に置いた妻子が逃げるのを防ぐ。女性は特に厳しく、人相書と照合され、髪をほどかれ、改め婆に体を検められた。男の手形は寺か領主が、女の手形は幕府の留守居が発行する。海と山に挟まれた地形で、迂回する間道も見張られた。関所破りは磔である。人の移動を許可制にすることが、支配の道具として機能した二百五十年である。
場所
35.20°N 139.03°E · 日本・神奈川県
本文
江戸幕府は、五つの大きな街道(五街道と宿場)を整えると同時に、その要所に関所を置いた。なかでも重く見られたのが、江戸と京・大坂を結ぶ東海道の箱根である。1619年(元和5年)、芦ノ湖の東南の岸に関所が設けられた。背後には屏風山の急な斜面が迫り、前は湖である。東海道を通る者は、どうしてもこの狭い場所を抜けなければならない。地形そのものが、関所を成り立たせていた。
関所の役目は、「入り鉄砲に出女」という言葉でよく語られる。江戸へ鉄砲などの武器が持ち込まれることを止め、江戸から女性が出ていくことを止める。なぜ女性なのか。参勤交代の制度(参勤交代の制度化)のもとで、大名は一年おきに国元と江戸を行き来し、その妻と子は江戸の屋敷に住まわされた。事実上の人質である。もし大名の妻子がひそかに国元へ帰り始めたら、それは謀反の前触れかもしれない。だから江戸から出ていく女性を、厳しく見張ったのである。

関所を通るには、関所手形が要った。男の場合は、村の役人や菩提寺、領主などが身元を保証する手形を出し、それを見せて名を告げれば、比較的たやすく通れた。江戸時代の後半には、伊勢参りや湯治、名所めぐりの旅が庶民のあいだで盛んになり、東海道は多くの旅人でにぎわった(『東海道中膝栗毛』)。
女性の場合は、まったく違った。江戸から出る女性の手形は幕府の役人が発行し、そこには年齢や身分のほか、髪の形や体の特徴まで細かく書き込まれた。顔にほくろがある、右の眉の上に傷がある、といった具合である。関所では「改め婆」と呼ばれる女性の役人が、手形の記載と本人とを一つずつ照らし合わせた。髪をほどかせて、中に何か隠していないか、男が女に化けていないかを調べ、着物の上から体を検めることもあった。記載と少しでも違えば通してもらえず、手形を出し直してもらうために引き返す旅人もいた。逆に、江戸へ入る女性の調べはずっと緩かった。目的が、出さないことにあったからである。

関所を通らずに山を越えることは「関所破り」と呼ばれ、捕まれば磔にされた。手引きをした者も死罪になった。箱根の関所の近くには「お玉ヶ池」という池があり、江戸の奉公先から逃げ出して故郷へ帰ろうとしたお玉という娘が、関所破りの罪で処刑された場所だと伝えられている。山の抜け道にも見張りの番所が置かれ、裏の道を通ることも難しかった。
もっとも、実際の運用は時期によって違った。厳しく取り締まった時代もあれば、緩んだ時代もある。幕末に近づくほど調べは形だけになり、賄賂が通ることもあったという。そもそも海の道を使えば、陸の関所は通らずに済んだ。関所が残した日々の記録には、誰がいつ何人通ったかとともに、手形の不備や人相の食い違いで通行を断られた者のことも書きとめられている。

幕府が直接に管理した関所は、東海道の箱根と新居、中山道の碓氷と木曽福島をはじめ、全国に五十あまりあった。それぞれが街道の喉元を押さえ、人と物の流れを見張った。人の移動を許可制にすることは、戦のない時代を保つための仕組みであり、同時に、人々から移動の自由を取り上げる仕組みでもあった。二百五十年にわたって大きな戦が起きなかったことと、人々が自由に国を行き来できなかったことは、同じ制度の表と裏である。
明治維新の翌1869年(明治2年)、新政府は全国の関所を廃止した。理由の一つは、関所が人の往来を妨げるということだった。近代の国家は、国の内側での移動を自由にし、その代わりに国境で人を止める。境目を見張る場所が、国の内側から外側へと移ったのである。
箱根の関所の建物は取り壊され、長く跡地だけが残っていた。1983年、関所の修理の記録を詳しく記した古文書が見つかり、発掘調査と合わせて、当時の工法による復元が進められた。2007年、大番所や足軽の詰め所、門や柵がよみがえり、いまは多くの観光客が訪れる。土産物の店には、通行手形をかたどった品が並んでいる。かつて人を止めるために使われた紙が、いまは旅の記念として売られている。