室町幕府の成立
概要
幕府が京都に戻った。朝廷が南北に分かれ、60年争う。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の成立は滅んだ。倒したのは、隠岐を脱出した後醍醐天皇の呼びかけに応じた武士たちである。六波羅探題を攻め落としたのは、幕府の有力な御家人だった足利高氏、のちの足利尊氏だった。後醍醐天皇は天皇みずから政治を行う新しい体制を始め、高氏は天皇の名の一字をもらって尊氏と名を改めた(建武の新政)。
新しい政治は武士たちの期待に応えなかった。恩賞は公家や寺社に厚く、所領の訴えは滞り、朝令暮改が続いた。京の二条河原に掲げられたとされる落書は、夜討ち、強盗、にせの綸旨と、都の混乱を列挙して皮肉っている。武士の多くは、自分たちの棟梁として源氏の名門の足利氏を仰ぐようになっていた。

建武2年(1335年)、北条氏の残党が鎌倉を奪う中先代の乱が起きた。尊氏は天皇の許しを待たずに東へ下り、鎌倉を取り戻すと、そのまま京へ戻らず、従った武士たちに勝手に恩賞を配りはじめた。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じ、両者は全面的に戦うことになる。
尊氏は一度は京に攻め上ったが、北畠顕家らに敗れて九州まで落ちのびた。だがそこで態勢を立て直し、持明院統の光厳上皇から院宣を得て、朝敵の汚名を避けた。建武3年(1336年)、大軍を率いて海と陸から東へ攻め上り、摂津の湊川で楠木正成を討ち(湊川の戦い)、楠木正成の死をもって京へ入った。

この年の8月、尊氏は光厳上皇の弟を光明天皇として即位させ、11月には政治の方針を示す建武式目を定めた。式目は、幕府をどこに置くかという問いから書き起こし、鎌倉が吉か、ほかの土地がよいかは人々の意向に従う、と答えを留保している。結局、尊氏は京にとどまった。この建武式目の制定を幕府の始まりとみる考え方もある。
12月、後醍醐天皇は京を脱出して大和の吉野へ移り、自分こそが正統の天皇だと宣言した。京の朝廷を北朝、吉野の朝廷を南朝と呼ぶ。二つの朝廷が並び立つ時代が、ここから半世紀あまり続く。暦応元年、南朝の年号では延元3年にあたる1338年、尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられた。同じ年、南朝を支えた北畠顕家が和泉で、新田義貞が越前で戦死している。翌年、後醍醐天皇は吉野で没した。尊氏は天皇の霊を慰めるため、京の嵯峨に天龍寺を建て、その費用を得るために元へ貿易船を送った。

幕府を京に置いたことには理由があった。鎌倉幕府が倒れた原因の一つは、遠い鎌倉から西国と朝廷を十分に押さえられなかったことにある。南朝と戦うにも、北朝を守るにも、京にいなければならない。そのぶん幕府は朝廷や公家と日常的に接し、武家の文化と公家の文化が混ざり合うことになった。
幕府の足もとは脆かった。尊氏は弟の直義に政務を任せていたが、尊氏の執事の高師直と直義が対立し、幕府は真っ二つに割れた(観応の擾乱)。直義は一時南朝に降ってまで兄と戦い、最後は尊氏に捕らえられて急死した。毒殺とされる。この内紛のたびに、敗れた側が南朝を担いだため、南朝は弱体化しながらも長く生き延びた。

戦いを続けるため、幕府は諸国の守護に大きな権限を与えた。荘園の年貢の半分を兵糧として取り立てる半済を認め、守護はこれを足がかりに国の武士を家来にしていった。守護はやがて一国を支配する守護大名へと育ち、幕府はその連合の上に乗る形になる。将軍が強い守護を押さえきれるかどうかが、この幕府の盛衰を決めた。
尊氏は延文3年(1358年)に没した。その年に生まれた孫の足利義満が、京の室町に壮麗な邸宅、花の御所を構えたことから、この幕府は室町幕府と呼ばれる。義満は有力な守護を討って力をそぎ、1392年に南北朝の合一を果たした。幕府の最盛期である。

その後、将軍の後継ぎをめぐる争いと有力守護家の内紛が重なって、応仁の乱が起きる。8代将軍足利義政の時代のことで、以後、幕府は京の周辺を治める一勢力に縮み、各地は戦国大名が分け合う。将軍家は1573年に織田信長が義昭を追うまで続いた。南北朝のどちらが正統かという問題は、明治44年(1911年)に国定教科書の記述をめぐって帝国議会で争われ、政府は南朝を正統と定めた。南朝を正統とする見方は江戸時代の水戸藩の『大日本史』などにさかのぼるが、これが国の公式の立場となり、尊氏は学校で逆賊として教えられるようになった。