概要
百万の人が暮らした江戸では、町人の多くが、表通りの裏の路地に建つ長屋を借りて住んだ。典型的な住まいは「九尺二間」と呼ばれ、間口が9尺(およそ2.7メートル)、奥行き2間(およそ3.6メートル)で、土間のかまどと流しのほかは、四畳半ほどの板の間か畳の部屋が一つきりだった。井戸と便所とごみ溜めは、路地の住人が共同で使った。壁は薄く、隣の話し声も筒抜けで、住人どうしは否応なく助け合った。家主に代わって長屋を管理する大家が、住人の世話と町の役目を担った。風呂は町の湯屋に通った。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
18世紀の江戸は、百万人を超える人が住む、世界でも指折りの大都市だった。だが、江戸の土地の多くは、大名の屋敷や武家の屋敷、寺社が占め、町人が住む土地は全体の2割にも満たなかった。そこに江戸の人口のおよそ半分の町人がひしめいていた。
表通りに面した土地には、店を構える商人の家が並んだ。その裏の路地に入ると、「裏長屋」が建ち並んでいた。一棟の細長い建物を薄い壁で仕切り、何軒もの住まいを並べたもので、職人や行商人、日雇いの人々が、家族とともに借りて住んだ。
典型的な住まいは「九尺二間の裏長屋」と呼ばれた。入口の戸を開けると、まず土間があり、そこにかまどと水がめと流しが置かれている。土間から上がると、四畳半か六畳ほどの部屋が一つ。家族がそこで食べ、寝て、仕事もした。押し入れの無い住まいも多く、布団は畳んで部屋の隅に積んだ。家財道具はわずかで、火事になればすぐに持ち出せるほどだった。
路地の奥には、住人たちが共同で使う井戸、便所、ごみ溜めがあった。井戸は、上水から木の樋で引いた水をためたもので(江戸の上水井戸)、そのまわりで、女性たちは米を研ぎ、洗濯をし、おしゃべりをした。これを「井戸端会議」と呼んだ。便所にたまった糞尿は、近郊の農家が肥料として買い取りに来た(江戸の下肥)。その代金は大家の収入になった。風呂のある家はほとんど無く、人々は町の湯屋に通った(江戸の湯屋)。
長屋の持ち主は地主だったが、実際に長屋を管理し、住人の面倒を見たのは「大家」だった。大家は、家賃を集め、住人の争いを仲裁し、出生や死亡、引っ越しを町の役人に届け、住人の身元を保証した。落語の世界では、大家は住人にとって親も同然と言われる。壁は薄く、隣の夫婦げんかも子どもの泣き声も筒抜けで、住人どうしは否応なく関わり合い、助け合って暮らした。
長屋は燃えやすく、江戸の大火のたびに焼けては、すぐに建て直された。明治になっても、長屋は都市の庶民の住まいであり続けたが、関東大震災と戦災で多くが焼け、戦後は木造の賃貸のアパートや公団の団地(公団住宅と2DK)に置き換わっていった。