幕府の山林保護令
概要
城と町を建てるために山を裸にし、洪水が続いた。幕府は伐採を制限し、植林を命じた。人口3000万の島国が森を取り戻した例として『文明崩壊』が取り上げる。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけて、日本では途方もない量の木が伐られた。各地の大名が城を築き、城の周りに城下町を作り、戦で焼けた寺社を建て直した。天守や御殿の柱には巨木が要り、町家も橋も船も木で作る。煮炊きと暖房は薪と炭で、塩を煮る、瓦を焼く、砂鉄から鉄を作るといった仕事も大量の燃料を食った。江戸は火事のたびに建て直され、明暦の大火では市街の大半が焼けた。
17世紀の半ばには、畿内と関東の山の多くが禿げ山や草山になっていた。木の根が土を押さえなくなった斜面は、大雨のたびに崩れる。流れ出た土砂が川床を押し上げ、川は天井川になり、下流の田畑が洪水に呑まれた。大坂へ流れ込む淀川や大和川の流域は、特にひどかった。田に入れる肥料の草を刈るために山の下草まで取り尽くし、それが荒れをさらに進めた。

1666年(寛文6年)、幕府は「諸国山川掟」を出した。草や木の根を掘り取ることを禁じ、川上の木のない山には苗木を植えて土砂の流出を防げと命じ、川岸を新たに切り開いて畑にすることを禁じた。畿内とその周辺に向けた命令だったが、同じ考えはやがて各地の藩の政策になる。
同じころ、岡山藩に仕えた儒学者の熊沢蕃山は、山の荒廃と洪水を一つながりのものとして論じた。山の木を伐り尽くせば川が荒れ、川が荒れれば田が失われ、民が飢える。だから山を治めることが水を治めることになる、という考えである。蕃山は藩の政策にもかかわり、晩年には幕府の政治を批判して幽閉されたが、その議論は後世の治山治水の考え方に影響を残した。

藩は山を分けて管理した。勝手に入ってはならない留山、藩の御林、村が使ってよい山。尾張藩は木曽の山でヒノキやサワラなど五種の木を伐ることを厳しく制限し、「木一本に首一つ」と言われるほどだったと伝えられる。伐採には許可が要り、伐った木の数は帳簿に記され、役人が山を見回った。
18世紀に入ると、木を植えて育てることが商売として成り立つようになる。奈良の吉野や紀伊、秋田、飛驒などで、杉や檜を植え、間引き、数十年かけて育てて売る林業が根づいた。村と商人が植林の費用と収益を分け合う契約も生まれた。1697年に出た宮崎安貞の『農業全書』にも、杉や檜をはじめとする木の植え方と育て方が詳しく書かれ、木を植えることが農民の知識として広まっていった。肥料を山の草に頼る量を減らすため、北の海で獲れたニシンを干した魚肥が使われるようになったことも、山を休ませた。
鎖国の完成ののち、日本は外国から木材を買うことができなかった。足りなくなれば代わりはどこにもない。人口がおよそ3000万に達し、ほとんどすべての燃料と建材を木に頼る社会が、その条件のもとで森を回復させた。19世紀の初めまでに、日本の山の多くは再び緑に覆われていたとされる。アメリカの歴史家コンラッド・タットマンは、この過程を「緑の列島」として描いた。
ジャレド・ダイアモンドは『文明崩壊』でこの話を、上からの命令で環境の破綻を防いだ例として取り上げた(物語「『文明崩壊』で読む歴史」)。同じ本の前半で扱われるイースター島では、森を伐り尽くした島の社会が衰えていった(ロッゲフェーンのイースター島到達)。どちらも外から木を手に入れられない島だった。ダイアモンドは、日本の支配層が長い平和の中で、自分の家が何代も先までその土地を治めると見込めたことを、森を守る動機の一つに挙げている。
もちろん、江戸時代の森が昔の姿に戻ったわけではない。広葉樹の雑木林は、建材として値のつく杉と檜の人工林に置き換えられていった。山の利用を巡る村どうしの争いも絶えなかった。それでも、資源を使い尽くす寸前で引き返した社会の例として、この掟は今も引かれる。江戸の町で物が徹底して使い回されたこと(江戸の再生の仕組み)とも、同じ土台の上にある。