できごと

巌流島の決闘

Duel at Ganryūjima
AD1612年5月13日(慶長17年4月13日)
重要度 3
ロシア帝国中央アジアの諸ハン国スペイン帝国明ムガル帝国チベットチャガタイ汗国イスラムとヒンドゥーの諸国アユタヤ朝Koryaks日本シャン諸邦大越朝鮮王朝Itelmen大越ビルマの諸王国カンボジアラオスベンガルLan NaアイヌモシリPeguAD1612年5月13日(慶長17年4月13日)巌流島
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1612年5月13日(慶長17年4月13日)の版図を描いています(23勢力)。

概要

関門海峡の小島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した。武蔵は遅れて来て、櫂を削った木刀で小次郎の額を割った、と武蔵の養子の碑文(1654年)が言う。小次郎が誰だったか、本当にあったか、確かでない。吉川英治の小説(1935年)で日本中が知った。

場所

巌流島
33.94°N 130.93°E · 山口県下関市

関わった人(1)

宮本武蔵AD1584年–AD1645年6月13日 · 木刀で

本文

17世紀の初め、関ヶ原の戦いで天下の大勢が決まると、戦場で手柄を立てる機会は減っていった。代わって、腕に覚えのある武芸者たちは諸国を巡り、各地の流派と立ち合って名を上げ、大名に剣術の師範として召し抱えられることを目指した。勝負に負ければ命を落とすこともある。宮本武蔵も、そうした武芸者の一人だった。晩年に書いた『五輪書』で、武蔵は、13歳で初めて勝負をして相手を打ち殺し、29歳になるまでに60回あまりの勝負をして、一度も負けなかったと記している。

関門海峡に、下関と門司のあいだの潮の流れの速い水道に浮かぶ、船島という小さな島がある。ここで武蔵が、「岩流」と呼ばれる剣の使い手と立ち合ったことは、ほぼ確かとされる。根拠となるいちばん古い史料は、武蔵の死から9年後の1654年、養子の宮本伊織が小倉の手向山に建てた顕彰の碑の文、いわゆる「小倉碑文」である。碑文によれば、岩流という兵法の達人がいて、武蔵に雌雄を決することを求めた。長門と豊前のあいだの海中の舟島で、二人は同時に出会った。この一句は、武蔵がわざと遅れて来たという後の話と食い違っている。岩流は三尺の白刃を手にして命がけで戦ったが、武蔵は木刀の一撃でこれを倒した。碑文が語るのは、ほぼそれだけである。

佐々木小次郎(佐々木小次郎)歌川国芳(1845)
佐々木小次郎(佐々木小次郎)歌川国芳(1845)Wikimedia Commons Utagawa Kuniyoshi (Japanese, 1797–1861) · Public domain

よく知られた決闘の物語の多くは、それから100年以上のちに書かれた『二天記』によるものである。武蔵の死から約130年後の1776年に、熊本で武蔵の弟子筋に伝わった話をもとにまとめられた伝記で、これが決闘を慶長17年4月13日、つまり1612年のこととしている。この本によれば、相手は佐々木小次郎といい、物干し竿と呼ばれる長い刀を使う、豊前の細川家の剣術の師範だった。約束の朝、武蔵はなかなか現れず、待たされた小次郎はいら立った。武蔵は宿で遅く起き、船を漕がせて島へ向かう途中で、船の櫂を削って長い木刀を作ったという。

二時間ほど遅れて浜に着いた武蔵に、小次郎は怒って刀を抜き、鞘を水の中に投げ捨てた。それを見た武蔵が、勝つ者が鞘を捨てるはずがない、小次郎、敗れたり、と言い放った、という場面も『二天記』にある。小次郎の刀は武蔵の鉢巻を切り落としたが、武蔵の木刀は小次郎の額を打ち砕いた。武蔵は倒れた小次郎の息を確かめてから、舟に戻って去った。遅刻で相手を焦らせ、長い刀に対してさらに長い木刀で応じる。その鮮やかな筋立ては、後の講談や芝居にぴったりだった。しかし、これらの細部が事実かどうかは確かめようがない。

宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘(1612)
宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘(1612)Wikimedia Commons Yoshifusa Utagawa (active ca. 1840-1860) · Public domain

別の記録は、まったく違う場面を伝えている。細川家の重臣で門司の城を預かっていた沼田家に伝わる記録には、二人は互いに弟子を連れてこない約束をしていたのに、武蔵の弟子たちが島に来ていた、と書かれている。小次郎は武蔵に打ち倒されて気を失ったが、やがて息を吹き返したところを、武蔵の弟子たちが寄ってたかって打ち殺した。怒った小次郎の弟子たちが武蔵を追ったので、武蔵は門司の城に逃げ込んでかくまわれた、というのである。こちらの記録も事件から60年ほどのちのもので、どちらが正しいかは決められない。

そもそも、相手が何者だったかがはっきりしない。小倉碑文は「岩流」としか書かず、「佐々木」という姓や「小次郎」という名が見えるのは、18世紀の芝居や書物になってからである。若い美剣士として描かれることが多いが、伝えられる師の系譜から計算すると、かなりの年配だったはずだという指摘もある。決闘の年も、碑文には書かれていない。慶長17年という年は『二天記』によるもので、武蔵の年齢と合わせて、研究者のあいだで疑問が出されている。船島が「巌流島」と呼ばれるようになったのは、負けたほうの名にちなんでのことで、島ではその名が勝者の名より長く残った。

武蔵自身は、その後も諸国を巡った。1615年の大坂の陣には、徳川方の大名の陣に加わっていたとされる。大名に仕官する道も探したが、思うような地位は得られなかったとされる。二人の養子は、それぞれ大名の家臣になって出世した。武蔵が熊本の細川家に客として迎えられたのは、50代の半ばを過ぎた1640年のことで、そこで『五輪書』を書き、1645年に亡くなった。巌流島のことは『五輪書』に一言も出てこない。

大坂の陣に関わる図版:Osakarakuzyou (cropped)
大坂の陣Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

決闘を日本中が知る物語にしたのは、1935年から朝日新聞に連載された吉川英治の小説『宮本武蔵』だった。乱暴な野生児の武蔵が、修行を重ねて剣の道を究め、心の悟りを求める人間へと成長していく。小説は、ひたむきに武蔵を待つお通や、武蔵の宿敵として成長する小次郎を配し、巌流島の決闘を長い物語の最後の山場に置いた。戦時色が強まるなかで読者は熱狂し、小説は何度も映画になった。勝つために遅刻も策略も用いた実在の武芸者は、こうして剣による求道者の姿で人々の記憶に刻まれることになった。関門海峡の小島は今も「巌流島」と呼ばれ、浜辺には二人の像が向かい合って立っている。

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