概要
関門海峡の小島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した。武蔵は遅れて来て、櫂を削った木刀で小次郎の額を割った、と武蔵の養子の碑文(1654年)が言う。小次郎が誰だったか、本当にあったか、確かでない。吉川英治の小説(1935年)で日本中が知った。
場所
巌流島
33.94°N 130.93°E · 山口県下関市
33.94°N 130.93°E · 山口県下関市
関わった人(1)
宮本武蔵AD1584年–AD1645年6月13日 · 木刀で本文
関門海峡の、下関と門司の間の小さな島。船島。1612年4月13日、と伝える。
宮本武蔵の養子伊織が1654年に小倉の手向山に建てた「小倉碑文」がほぼ唯一の同時代に近い史料。「岩流という兵術の達人が、三尺の白刃で戦いを挑んだ。武蔵は木刀で応じた。岩流は一撃で死んだ」。武蔵が29歳。
『二天記』(1776年、武蔵の死から130年後)が話を作った。相手は佐々木小次郎、燕返し、物干し竿と呼ばれる長刀。武蔵は約束の時間に2時間遅れて来た。船の中で櫂を削って木刀にした。小次郎が怒って鞘を投げ捨て、武蔵が「小次郎、負けたり。勝つつもりなら鞘を捨てるか」と言った。小次郎の刀は武蔵の鉢巻を切り、武蔵の木刀は小次郎の額を割った。武蔵は小舟で帰った。
小次郎が誰だったかは分からない。「佐々木」の姓は『二天記』が初めて。歳は18とも、70の老人とも。細川家の記録では、小次郎は殺されず、気絶して、武蔵の弟子たちがとどめを刺した、とも言う。そもそもあったのか、と言う人もいる。
島は「巌流島」と呼ばれた。負けた方の名で。
1935年から朝日新聞に吉川英治の『宮本武蔵』が連載された。武蔵が自分を鍛え、お通が待ち、又八が落ちぶれ、小次郎が待つ。日本中が読んだ。武蔵は剣の求道者になった。史料の武蔵は、60余回の決闘に勝った、と自分で書いた人で、大名に仕官を求めて、得られなかった人だった。