織田信長
概要
鉄砲と経済で旧い秩序を壊した。統一を目前にして家臣に討たれる。
所属
日本関わったできごと(6)
桶狭間の戦いAD1560年6月12日 · 織田側 · 総指揮姉川の戦いAD1570年7月30日(元亀元年6月28日) · 勝った石山合戦AD1570年(元亀元年) · 囲んだ長篠の戦いAD1575年6月29日(天正3年5月21日) · 柵と鉄砲本能寺の変AD1582年6月21日 · 当人宮内省の鵜匠AD1890年(明治23年) · 鵜飼を保護した本文
1534年、尾張の織田信秀の子として生まれた。織田家は尾張の守護代の一族のそのまた分家で、父信秀は戦と商業都市津島の経済力で勢力を伸ばした人だった。幼くして那古野城を与えられている。

若い頃、奇矯な振る舞いで「うつけ」と呼ばれた。家臣の太田牛一が書いた伝記『信長公記』によれば、湯帷子の袖を外し、腰に火打ち袋や瓢箪をいくつもぶら下げ、髪を茶筅のように結い、町を歩きながら柿や瓜をかじり、人に寄りかかって歩いたという。父の葬儀では、袴もつけずに現れ、位牌に抹香をつかんで投げつけたと伝わる。同じ書物は、その一方で彼が毎朝馬を走らせ、弓や鉄砲、兵法の稽古に励んでいたことも書いている。
父の死後、尾張の中での争いを勝ち抜いた。美濃の斎藤道三と会見した折には、例のうつけの姿で道中を進みながら、会見の場には正装で現れ、長い槍と鉄砲を揃えた供回りで道三を驚かせたと伝わる。家督を争った弟の信勝は、病と偽って見舞いに来させ、殺している。
1560年、駿河・遠江・三河を治める今川義元が大軍で尾張に攻め込んだ。信長は少数の兵で今川の本陣を急襲し、義元を討ち取った(桶狭間の戦い)。出陣の前に、幸若舞の「敦盛」の一節、人の一生の五十年は天上の世界に比べれば夢幻のようなものだ、という一節を舞ったと『信長公記』は書く。この勝利で位置が変わる。2年後には、今川から独立した三河の徳川家康と同盟を結び、東の守りを固めた。

1567年、美濃を手に入れ、稲葉山の城下を岐阜と改めた。この頃から「天下布武」の印を使い始める。翌年、足利義昭を奉じて京都に上り、義昭を将軍に就けた。だが二人はやがて対立し、義昭は諸国の大名や寺社に信長包囲を呼びかけた。北近江の浅井、越前の朝倉、甲斐の武田、そして大坂の本願寺が敵に回る。
やったことで大きいのが、既存の権威を壊したことになる。1571年、浅井・朝倉に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちした。本願寺とは1570年から10年にわたって戦い(石山合戦)、伊勢長島や越前の一向一揆では、降った者も含めて数万人を殺したと記録される。寺社が持っていた武力と経済力は、ここで大きく削がれた。1573年には義昭を京都から追放し、室町幕府の成立以来の幕府は事実上終わる。

経済の仕組みにも手をつけた。領内の関所を撤廃し、人と物の行き来を自由にした。1577年には安土の城下に、座の特権を認めず誰でも商売できるとする掟を出している(楽市楽座)。楽市そのものは他の大名も行っていたが、信長はそれを城下の町づくりに大きく使った。
鉄砲を大量に使った。鉄砲の産地である近江の国友を押さえ、火薬の原料が入る港町堺を直轄にしている。1575年の長篠の戦いでは、武田勝頼の騎馬隊を、柵の後ろに並べた多数の鉄砲で破った。3000挺の鉄砲を三段に分けて交代で撃たせたという話は、のちの書物で広まったもので、いまは疑問視されている。

家臣の登用も、出自を問わなかった。農民とも足軽の子ともいわれる豊臣秀吉が重臣になり、諸国を渡り歩いた浪人とされる明智光秀が一国の主になった。その分、働きの無い者には厳しかった。1580年、古参の重臣佐久間信盛を、本願寺攻めで功が無かったとして、長い折檻状を突きつけて追放している。
宣教師を保護し、ポルトガル人のもたらす文物に強い関心を示した。宣教師ルイス・フロイスは、信長は背が中くらいで、声は甲高く、酒を飲まず、睡眠は短く、神仏の礼拝や占いを軽んじたと書いている。宣教師が連れてきたアフリカ出身の男性を召し抱え、弥助と名付けたことも記録に残る。1576年からは琵琶湖のほとりに、天主と呼ばれる高層の建物を持つ安土城を築いた。
1582年春、武田氏を滅ぼした。その年の6月2日、中国地方へ向かう途中に京都の本能寺に泊まっていたところを、明智光秀の軍に囲まれた(本能寺の変)。謀反を知らされて「是非に及ばず」と言ったと『信長公記』は伝える。寺に火を放ち、自害したとされるが、遺体は見つかっていない。数えで49歳だった。光秀がなぜ背いたのかは、怨恨説、野望説、黒幕説など諸説あり、決着していない。

天下統一を目前にした死だった。その事業は家臣の秀吉が引き継ぎ、最後に家康がまとめる。旧い秩序を壊したのは信長だという評価は、江戸時代から続いている。
ただ、伝えられてきた像には見直しも進んでいる。比叡山焼き討ちの規模については、1980年代以降の発掘で焼けた跡が限られた建物でしか見つからず、当時すでに多くの堂舎が荒れていた可能性が指摘されている。将軍や朝廷を尊重しようとした面を強調する研究も増えた。破壊者か、それとも時代の流れを速めた人か、その評価はいまも揺れている。