できごと

徴兵令

Conscription Ordinance
1873年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジア1873年江戸
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1873年の版図を描いています(11勢力)。

概要

武士だけが戦う時代が終わり、国民皆兵になった。士族の存在理由が失われていく。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

山県有朋1838年–1922年 · 主導

本文

戊辰戦争を戦ったのは、薩摩・長州・土佐などの藩の兵だった。新政府は自前の軍隊を持たず、廃藩置県の直前に三藩から兵を出させて「御親兵」を作ったのが精いっぱいだった。藩が無くなれば、藩の兵も無くなる。国家がじかに兵を集める仕組みが要った。

国民から兵を取るという構想を最初に描いたのは、長州の大村益次郎だった。武士の数に頼らず、身分を問わずに兵を集めて西洋式に鍛える。長州の諸隊で試された考え方である。大村は明治2年(1869年)に、それを嫌う士族に襲われて命を落とした。その構想を引き継いだのが、同じ長州の山県有朋である。山県はヨーロッパを視察し、フランスやプロイセンの徴兵制度を見て帰った。

最初期の軍服姿の板垣退助(1870年頃撮影)
最初期の軍服姿の板垣退助(1870年頃撮影)Wikimedia Commons 1870年頃の日本の写真家 · Public domain

明治5年(1872年)11月、政府は徴兵告諭を出し、翌明治6年1月に徴兵令を定めた。満20歳になった男子は検査を受け、合格した者は3年間、常備軍に入る。その後も予備の兵として名簿に残る。全国を6つの軍管区に分け、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の鎮台に兵を集めた。

徴兵告諭には、それまでの武士を、世襲で禄を食み、人を斬っても罪に問われない者たちだと手厳しく書いた一節がある。四民がひとしく国を守る、というのが新しい建前だった。武士だけが戦うという身分の秩序は、ここで公式に否定された。

陸軍省が1873年に要請した人数。NDL
陸軍省が1873年に要請した人数。NDLWikimedia Commons Official Gazette Bureau of the Diet · Public domain

ただし、実際の徴兵には免除の規定が多かった。身長が5尺1寸(約155センチ)に満たない者や病弱な者に加え、官吏、官立学校の生徒、一家の主である戸主とその跡取り、養子に入った者も免除された。さらに、代人料270円を納めれば兵役を逃れられた。270円は、当時の庶民にはとても払えない大金である。結局、兵営に入ったのは、家を継がない農家の次男や三男が中心になった。免除の規定を解説した『徴兵免役心得』のような本まで出回り、養子縁組や分家で戸主になって逃れようとする者も多かった。

一方で、兵営での暮らしは、貧しい農村の若者にとって悪いことばかりではなかった。陸軍では兵に1日6合の米を出すと定めていて、白い米の飯を毎日腹いっぱい食べられることは、村ではまず無いことだった。読み書きや計算を教わり、時計の時刻に従って起き、寝る。兵営は、近代の規律を体で覚える場所でもあった。

山県有朋の肖像
山県有朋Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

徴兵告諭には、西洋ではこれを「血税」と呼ぶ、という一文もあった。身をもって国に報いる、という意味である。ところが、この言葉が文字どおりに受け取られた。生き血を絞り取られるという噂が広がり、明治6年には岡山県北部(当時の北条県)や香川、鳥取など西日本を中心に、農民の一揆が相次いだ。血税一揆と呼ばれる。実際には、徴兵そのものへの不安に、学校の費用や地租改正への不満、解放令で身分を引き上げられた人々への反発が重なって爆発したものだった。

士族にとって、徴兵令は存在の根を断たれることを意味した。戦うことが武士の務めであり、禄はその見返りだった。戦う役目を農民と分け合うのなら、禄を払い続ける理由も無くなる。政府は数年のうちに家禄を打ち切り、刀を差して歩くことも禁じた。

明治10年の西南戦争は、その結末を目に見える形にした。西郷隆盛を担いだ薩摩の士族は、農民の兵など物の数ではないと見て、熊本鎮台の籠もる熊本城に襲いかかった。だが鎮台兵は50日あまり城を守り抜き、政府軍は最後に薩摩軍を鹿児島の城山まで追い詰めた。徴兵された兵の軍が、日本で最も強いとされた士族の軍を破ったのである。

西南戦争の後、政府は軍の規律と天皇への忠誠を固めることに力を注いだ。明治15年には、天皇が軍人に直接与えるという形で「軍人勅諭」が出され、軍は天皇に直属するものだという考えが叩き込まれた。鎮台は明治21年に師団へ改められ、国内の反乱を抑える軍から、外へ出て戦う軍へと姿を変えていく。

徴兵令は、その後も何度も改正された。明治22年の大改正では、戸主や跡取りの免除と代人料の制度がほぼ廃止され、国民皆兵の建前が実態に近づいた。兵役は、学校と並んで、全国の若者を同じ規律と同じ言葉の中に置く仕組みにもなった。1945年の敗戦まで続く日本の軍隊は、ここから始まっている。

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