元寇
概要
二度とも暴風雨で元の船団が壊れた。勝っても分け与える土地が無く、御家人の不満が幕府を蝕む。
場所
33.59°N 130.40°E · 日本・福岡県
関わった人(3)
北条時宗AD1251年–AD1284年 · 執権フビライ・ハンAD1215年–AD1294年 · 元側日蓮AD1222年3月30日–AD1282年11月14日 · 予言したと本文
13世紀の半ば、ユーラシアの大半はモンゴルの支配の下にあった(モンゴル帝国の拡大)。フビライ・ハンは1260年に大ハーンの位につくと、南の宋を攻めながら、海の向こうの日本にも目を向けた。1266年、日本に通交を求める国書を書き、高麗を通じて送らせた。国書は1268年に大宰府に届いた。
国書は、日本を「小国」と呼び、通好しなければ兵を用いることになる、と結んでいた。朝廷は返書の案を作ったが、鎌倉幕府は返事をしないと決めた。この年、18歳の北条時宗が執権になっている。その後も使者は何度も来たが、幕府は応じず、九州の御家人に守りを固めるよう命じた。これより前、日蓮は『立正安国論』で、正しい法を立てなければ他国から攻められると説いていた。のちに予言が当たったとされる。

1274年10月、元と高麗の軍が朝鮮半島南部の合浦を出た。兵はおよそ3万前後、船は900隻ほどとされる。対馬と壱岐を襲い、博多湾に上陸した。これが文永の役である。日本の武士は名乗りを上げて一騎ずつ戦う作法に慣れていたが、相手は集団で動き、太鼓と銅鑼で合図し、毒矢と火薬を詰めた「てつはう」を使った。肥後の御家人竹崎季長が、自分の働きを描かせた『蒙古襲来絵詞』には、空中で炸裂するてつはうが描かれている。
日本側は押されて大宰府の近くまで退いた。ところが翌朝、元軍の船は博多湾から消えていた。帰りの海で嵐に遭い、多くの船が沈んだとされる。ただし時期は旧暦10月の末、今の暦で11月にあたり、台風の季節ではない。嵐の規模や、そもそも嵐で引き揚げたのかについては疑問も出されている。はじめから一撃して力を見せる威力偵察の性格が強かったという見方もある。

幕府は守りを固めた。九州の御家人に交替で海岸を守らせ、博多湾の海岸線に20キロほどにわたって石の防塁を築かせた。1275年に来た元の使者を、鎌倉の龍ノ口で斬っている。もう交渉はしない、という意思表示だった。
1279年、元は南宋を滅ぼした。2年後の1281年、二度目の遠征が来る。朝鮮半島からの東路軍がおよそ4万、旧南宋の兵を中心とする江南軍がおよそ10万、合わせて14万という大軍だった。これが弘安の役である。先に着いた東路軍は博多湾に入ったが、石塁に阻まれて上陸できず、志賀島などで戦ったあと、江南軍と合流するために肥前の鷹島付近へ移った。そこで、旧暦閏7月1日、今の暦の8月に台風に遭い、船団の多くが壊れた。残った兵の多くが討たれ、あるいは捕らえられた。

二度とも、暴風雨で元の船団が壊れた。寺社は、自分たちの祈りが神風を起こしたのだと主張し、恩賞を求めた。日本は神に守られた国だという考えが、ここで強まる。
近年の海底調査で、別の面も分かってきた。長崎県の鷹島沖の海底からは、元軍の船の一部や、てつはうの実物が見つかり、2011年以降には船体の残る沈没船も確認された。船の造りには問題があり、急いで集めた船や、川を行き来する平底の船を転用したものが混じっていたとする研究がある。嵐が来れば壊れやすい船団だった。鷹島の海底遺跡は2012年、海の中の遺跡として初めて国の史跡に指定された。

この遠征は、元に従わされた人々の重荷でもあった。一度目の遠征の船の多くは、元の命令で高麗が短い期間に造らされたものだった。高麗は30年近くモンゴルと戦ったすえに降ったばかりで、造船と兵と食糧の負担は国を疲弊させた。二度目の江南軍の多くは、降伏した南宋の兵だった。彼らが船に農具や種もみを積んでいたことから、日本に住みつかせる計画だったとする見方もある。戦いに敗れて捕らえられた兵のうち、モンゴル人や高麗人は殺され、旧南宋の人々は命を助けられたと伝えられる。
フビライは三度目の遠征を計画した。しかし大越(ベトナム)への遠征や国内の反乱に手を取られ、1294年に死ぬまで実現しなかった。時宗は二度目の戦いの3年後に、34歳で亡くなっている。
問題は、その後になる。防いだだけで、得た土地が無い。御家人は自分の費用で武具と兵をそろえ、遠い九州まで出向いて戦った。恩賞を求めたが、分けるものが無い。しかも元が再び来るかもしれないため、九州の守りは続けなければならなかった。困窮した御家人を救うために幕府は永仁の徳政令を出し、売った土地を取り戻させたが、かえって御家人に金を貸す者がいなくなった。
国内の政治の形も変わった。九州の守りを指揮するため、北条氏の本家(得宗)とその家臣たちに権力が集まり、ほかの有力御家人との対立が深まった。時宗の死の翌年には、有力御家人の安達泰盛が、得宗の家臣を率いる平頼綱に一族ごと滅ぼされている。異国への警固の役目は、幕府の終わりまで御家人に課され続けた。

その不満が、幕府への信頼を蝕む。二度目の戦いから50年あまりのちの1333年、鎌倉幕府は倒れる。