湊川の戦い

概要
九州から戻った尊氏の大軍を、楠木正成が700騎で迎えた。比叡山に退けという献策は退けられ、弟と刺し違えて死んだ。「七生報国」。尊氏は京に入り、光明天皇を立て、後醍醐は吉野へ逃げた。南北朝の始まり。
場所
34.68°N 135.17°E · 兵庫県神戸市
関わった人(2)
楠木正成AD1294年–AD1336年7月4日 · 戦死足利尊氏AD1305年–AD1358年 · 勝者本文
1333年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇自ら政治を行う建武の新政を始めた。倒幕に大きな働きをしたのが、源氏の名門の足利尊氏と、河内の土豪の楠木正成だった。だが新しい政治は、公家を重んじ、武士への恩賞が乏しく、わずか2年で行き詰まった。1335年、関東で北条氏の残党が反乱を起こすと、尊氏は天皇の許しを得ないまま鎌倉へ下って乱を鎮め、そのまま天皇に背いた。
1336年1月、尊氏は京都を攻め落としたが、奥州から駆けつけた北畠顕家と、楠木正成、新田義貞らに敗れ、西へ逃れた。尊氏は途中で、後醍醐天皇と対立する持明院統の光厳上皇から、新田義貞を討てという院宣を得た。こうして尊氏は、天皇に背く逆賊ではなく、もう一つの皇統の命を受けた者として戦えるようになった。

九州に渡った尊氏は、3月、筑前の多々良浜で、天皇方の菊池武敏の大軍を破った。勢いを取り戻した尊氏は九州の武士を集め、4月、再び京都を目指して東へ向かった。尊氏は船で瀬戸内海を進み、弟の直義は陸の道を進んだ。その数は数万にふくれ上がっていた。
『太平記』によれば、この時、正成は天皇に一つの策を進言した。尊氏の大軍とまともにぶつかっても勝ち目はない。いったん天皇は比叡山に移り、尊氏を京都に引き入れ、その後で四方から兵糧の道を断って攻めれば勝てる。だが公家の坊門清忠が、天皇が1年に2度も都を捨てて山へ逃げるのは帝の威信にかかわる、と反対し、策は退けられた。正成は、兵庫で新田義貞とともに尊氏を迎え撃つよう命じられた。

『太平記』は、兵庫へ向かう途中の摂津の桜井の宿で、正成が11歳の息子の正行に、河内へ帰って自分の死後も天皇に尽くせと言い聞かせ、別れたと書く。「桜井の別れ」である。この場面は『太平記』の創作だとする見方も多いが、後の時代の人々の心を最も強くとらえた場面になった。
5月25日、新田義貞は兵庫の和田岬のあたりに陣を敷き、正成は湊川の西に陣を取った。正成の兵は700騎あまりだったと『太平記』は伝える。陸からは直義の大軍が、海からは尊氏の船団が迫った。尊氏の船団が東の浜に上陸しようとする動きを見て、義貞の軍は東へ退き、正成の軍は直義の大軍の中に孤立した。
正成の軍は、6時間にわたって16度も突撃を繰り返したという。最後に残ったのは73騎だった。正成は湊川の北の民家に入り、弟の正季と最後の言葉を交わした。正季が、七度人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい、と言うと、正成は、罪深い願いではあるが自分も同じ思いだ、と応え、兄弟は刺し違えて死んだ。正成は43歳前後だった。この「七生」の言葉は、のちに「七生報国」という言葉に形を変え、近代の日本で天皇への忠義の合言葉として使われていく。尊氏は正成の首を、河内の家族のもとへ丁重に送り届けたと伝えられる。
湊川で勝った尊氏は6月に京都に入った。後醍醐天皇は比叡山に逃れたが、やがて和睦して京都に戻り、三種の神器を引き渡した。8月、尊氏は光厳上皇の弟を光明天皇として即位させ、11月には武家の政治の方針を示す建武式目を定めた。室町幕府の始まりである。ところが12月、後醍醐天皇はひそかに京都を抜け出して大和の吉野へ移り、渡した神器は偽物だと言って、自分こそ正統の天皇だと主張した。京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝の時代が始まり、1392年に二つの朝廷が一つになるまで、57年続いた。

正成は、戦いに敗れた側の武将だった。だが江戸時代、『太平記』が広く読まれる中で、勝ち目のない戦いに身を投じた忠臣として称えられるようになった。1692年、水戸藩主の徳川光圀は湊川の正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ碑を建てた。幕末の志士たちはこの碑の前で涙を流したという。明治に入ると、1872年に湊川神社が建てられ、1900年には皇居の前に馬に乗った正成の銅像が置かれた。「青葉茂れる桜井の」と始まる唱歌が子どもたちに歌われ、正成は学校で教える忠臣の筆頭になった。戦争の時代には、「七生報国」の言葉が若者を死地に送る言葉にもなった。戦後、教科書の中の正成は小さくなったが、湊川神社にはいまも多くの人が参拝している。