概要
九州から戻った尊氏の大軍を、楠木正成が700騎で迎えた。比叡山に退けという献策は退けられ、弟と刺し違えて死んだ。「七生報国」。尊氏は京に入り、光明天皇を立て、後醍醐は吉野へ逃げた。南北朝の始まり。
場所
湊川
34.68°N 135.17°E · 兵庫県神戸市
34.68°N 135.17°E · 兵庫県神戸市
関わった人(2)
楠木正成AD1294年–AD1336年7月4日 · 戦死足利尊氏AD1305年–AD1358年 · 勝者本文
1336年1月、尊氏は京を取り、 北畠顕家が奥州から来て追い出した。 尊氏は九州へ。 筑前の多々良浜で、少弐の助けで菊池を破り、 2か月で九州を固め、 5月、東へ。 陸と海。 数万。 光厳上皇の院宣を持って。 「朝敵」でなくなった。
正成は後醍醐に言った。 尊氏を京に入れ、帝は比叡山へ。 新田は京の北へ。 尊氏が京に入ったところで、糧道を断って、挟む。 公家が反対した。 「帝が一年に二度、山に逃げるのは体面に関わる」。 坊門清忠。 正成は「討ち死にの覚悟」で兵庫へ向かった。 『太平記』。 桜井の駅。 息子正行、11歳。 「河内へ帰れ」。 「菊水の旗」。
5月25日。 和田岬に新田義貞。 湊川の西に楠木正成、700騎。 海から尊氏の弟直義の軍が来て、 陸から尊氏。 義貞は東へ退き、 正成は囲まれた。 16度の突撃。 73騎。 湊川の北の民家に入り、 弟正季に「何を願う」と問い、 「七生まで人間に生まれて、朝敵を滅ぼす」。 「私も同じだ」。 刺し違えた。 尊氏は正成の首を河内の家族に送った。
6月、尊氏は京に入り、 8月、光明天皇を立て、 11月、建武式目。 後醍醐は和睦して神器を渡し、 12月、吉野へ逃げて「渡した神器は偽物」と言った。 南北朝。 57年。
正成の墓。 湊川。 1692年、水戸光圀が碑を建てた。 「嗚呼忠臣楠子之墓」。 1872年、湊川神社。 1900年、皇居前の騎馬像。 戦前の教科書で、正成は最初に教える忠臣だった。 戦後、教科書から消えて、 桜井の駅の歌だけが残った。