河越夜戦
概要
関東管領上杉憲政と扇谷上杉朝定と古河公方が8万で河越城を囲み、北条氏康が8000で夜襲した。朝定が死に、扇谷上杉が滅び、憲政は越後へ逃げて上杉謙信に管領の名を譲った。北条が関東の主になった。数は誇張だが、勝ち方は伝わっている。
場所
35.92°N 139.49°E · 埼玉県川越市
関わった人(1)
北条氏康AD1515年–AD1571年 · 夜襲した本文
室町時代の関東は、京都の将軍とは別に、鎌倉に置かれた公方が治め、その補佐を関東管領の上杉氏が務めていた。だが15世紀のなかば、公方の足利成氏が管領の上杉憲忠を殺したことから、関東は30年近い内乱に陥る。成氏は下総の古河に移って「古河公方」と呼ばれ、上杉氏と争い続けた。その上杉氏も、管領を世襲する山内上杉家と、分家の扇谷上杉家に分かれて争った。公方と二つの上杉。関東はおよそ100年、三つどもえの争いの中にあった。
その隙に、西から新しい勢力が入り込んだ。伊勢氏の出の北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆を取り、15世紀の終わりに相模の小田原を手に入れた。子の氏綱は北条の姓を名乗り、武蔵へ進んで、1524年には扇谷上杉家の江戸城を、1537年には同家の本拠の河越城を奪った。1541年に氏綱が死に、跡を継いだのが北条氏康である。後北条氏と呼ばれるこの一族は(後北条氏)、関東の古い秩序から見れば、成り上がりのよそ者だった。

1545年、北条氏康は東西から挟まれた。西では、駿河の今川義元が、甲斐の武田晴信(のちの武田信玄)と結んで、北条が押さえていた駿河の東部を取り返そうと攻めてきた。これに呼応して、それまで争っていた山内上杉憲政と扇谷上杉朝定が手を結び、さらに古河公方の足利晴氏まで引き込んで、河越城を大軍で囲んだ。晴氏の妻は氏康の姉妹であり、北条とは縁戚だったが、それでも上杉の側についた。囲む軍勢は8万にのぼったと軍記物は伝える。数は誇張としても、関東の旧勢力がこぞって集まったことは確かだった。
河越城を守っていたのは、氏康の義理の弟にあたる北条綱成で、兵は3000ほどだったといわれる。綱成は「地黄八幡」と書いた旗を掲げる勇将として知られた。城は囲まれたまま、冬を越して半年あまり持ちこたえた。そのあいだに氏康は、武田晴信の仲立ちで今川と和を結び、駿河の東部を今川に譲って西の戦いを終わらせた。背後の憂いを断ったうえで、氏康は兵を東へ向けた。
1546年4月、氏康は河越へ向かった。手勢は8000ほどだったとされる。軍記物によれば、氏康はまず上杉の陣に使いを送り、城兵の命を助けてくれるなら城を明け渡すと低姿勢で申し入れ、さらに小競り合いでわざと退いてみせて、上杉方を油断させたという。4月20日の夜、氏康は兵に重い鎧を脱がせ、身軽にさせて敵陣に斬り込んだ。不意を突かれた扇谷上杉の陣は崩れ、当主の朝定は討ち死にした。城の綱成も打って出て、古河公方の陣を襲った。山内上杉憲政は上野の平井城へ逃げ、晴氏は古河へ退いた。
扇谷上杉家は、朝定の死とともに滅んだ。山内上杉憲政は勢力を立て直せず、北条の圧迫を受けて、1552年ごろ平井城も失い、越後の長尾景虎を頼った。のちの上杉謙信である。1561年、景虎は関東に出陣して小田原城を囲み、その途中の鎌倉の鶴岡八幡宮で、憲政から上杉の名跡と関東管領の職を譲り受けた。河越の敗戦が、越後の謙信を関東に引き込み、北条と上杉の長い争いを生むことになった。古河公方の足利晴氏も、のちに北条によって位を退かされ、北条の血を引く子の義氏が跡を継いで、公方は北条の意のままになった。
河越の勝利で、北条は武蔵の大半を押さえ、関東の覇者への道を歩みはじめた。氏康は検地を行い、税の仕組みを整えて、戦国大名の中でも優れた領国の治め方で知られるようになる。北条の関東支配は、1590年に豊臣秀吉が小田原を囲み、北条が降伏するまで、44年続いた(秀吉の天下統一)。
河越夜戦は、江戸時代には桶狭間の戦い、厳島の戦いと並ぶ「日本三大奇襲」の一つに数えられた。少ない兵で大軍を破った鮮やかな勝利として語られてきたが、その様子を詳しく伝えるのは、ずっと後に書かれた『北条記』や『関八州古戦録』などの軍記物で、どれも北条の側に立った書き方をしている。同じ時代の確かな文書は少なく、8万という数はもちろん、夜襲の段取りや、そもそも一夜の奇襲で決まった戦いだったのかどうかについても、研究者のあいだで疑問が出されている。確かなのは、この年を境に、関東の古い勢力が力を失い、北条の時代が始まったということである。