概要
関東管領上杉憲政と扇谷上杉朝定と古河公方が8万で河越城を囲み、北条氏康が8000で夜襲した。朝定が死に、扇谷上杉が滅び、憲政は越後へ逃げて上杉謙信に管領の名を譲った。北条が関東の主になった。数は誇張だが、勝ち方は伝わっている。
場所
河越(川越)
35.92°N 139.49°E · 埼玉県川越市
35.92°N 139.49°E · 埼玉県川越市
関わった人(1)
北条氏康AD1515年–AD1571年 · 夜襲した本文
関東は、鎌倉公方の子孫の古河公方と、管領の山内上杉、その分家の扇谷上杉が、100年争っていた。伊豆から来た北条早雲が相模を取り、息子氏綱が武蔵の河越城を扇谷上杉から取った(1537年)。
1545年、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定が和解し、古河公方足利晴氏を引き込んで、河越城を囲んだ。上杉の本拠は上野の平井、河越は扇谷の旧本拠。城には北条綱成(氏康の義弟)が3000。囲む側は8万、と『北条記』は言う。誇張だが、上杉の全部だった。
氏康は今川と武田に駿河の東で押されていて、動けなかった。今川と和睦して、翌1546年4月、8000で来た。半年、城は持ちこたえていた。氏康は上杉に降伏の使者を送り、城を渡すと言い、上杉は油断した。4月20日の夜、氏康は兵に鎧を脱がせて軽装で夜襲した。扇谷上杉朝定が死んだ。扇谷上杉は滅んだ。山内上杉憲政は上野に逃げ、1552年、平井も失って越後の長尾景虎(謙信)を頼り、上杉の名と関東管領を譲った。古河公方は北条の傀儡になった。
北条は武蔵を取った。関東の主。それから小田原まで45年。
「日本三大奇襲」(桶狭間、厳島と共に)と江戸時代に言われた。史料は北条側のもので、夜襲の様子は確かでない。