できごと

藤原純友の乱

Fujiwara no Sumitomo's rebellion
AD939年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民オグズ・テュルク吐蕃遼(契丹)五代十国ウイグルツングース系の人びと契丹カルルクマレー系の人びとパーラ朝南詔南詔と大理日本高麗クメール帝国アイヌパガン朝モンの諸国チャンパアラカンAD939年日振島
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD939年の版図を描いています(22勢力)。

概要

瀬戸内の海賊を率いて、淡路と讃岐の国衙を襲い、大宰府を焼いた。将門の乱と同じ年で、朝廷は東西から挟まれた。小野好古と源経基が鎮めた。承平天慶の乱。

場所

日振島
33.24°N 132.16°E · 愛媛県宇和島市

関わった人(1)

藤原純友?–AD941年 · 首領

本文

10世紀の初め、律令の仕組みで地方を治める朝廷の力は、目に見えて衰えていた。都から国司として赴任した貴族は、任期のあいだに税を取り立てて財を蓄えることに熱心で、地元の有力者や農民とのあいだで争いが絶えなかった。瀬戸内海は、九州や四国や山陽の国々から都へ税や品物を運ぶ大動脈である。その海には、運ばれる税を奪う海賊が出没した。海賊の中には、海に生きる漁民や船乗り、国司と争う地元の豪族、食い詰めた者たちが入り混じっていた。

藤原純友は、藤原北家の流れをくむ家の出とされる。ただし、伊予の土豪の家に生まれて藤原氏の養子になったとする説もあり、その生まれははっきりしない。純友は伊予の国司の三等官である掾として赴任し、任期が終わっても都に帰らず、伊予の地にとどまった。936年、朝廷は海賊を鎮めるため、紀淑人を伊予守に任じた。淑人は海賊を討つよりも、罪を許して田畑を与えるなど穏やかな手段で帰順させたとされる。このとき純友は、朝廷の側で海賊の取り締まりにあたっていたとする見方と、すでに日振島を根城に千艘あまりの船を率いる海賊の首領だったとする記録があり、評価が分かれている。

939年12月、事件は表に出た。備前の国司の次官の藤原子高が、純友の一味の動きを朝廷に訴えるため都へ向かう途中、摂津の国で、純友の部下に襲われたのである。子高は耳を切られ鼻をそがれ、妻は奪われ、子は殺されたと伝えられる。ちょうど同じ月、東国では、平将門が上野の国府で「新皇」を名乗っていた(平将門の乱)。朝廷は東と西から同時に挟まれる形になった。都では、二人が示し合わせて兵を挙げたのではないかと恐れられた。後世には、将門と純友が比叡山の上から都を見下ろし、天下を分け合う約束をしたという話まで生まれたが、これは史実とは考えられていない。

平将門の乱に関わる図版:Takedono no Rakugan 高殿落雁 (BM 2008,3037.19902 1)
平将門の乱Wikimedia Commons Print artist: Utagawa Kuniyoshi (歌川国芳) Published by: Enshuya Matabei (遠州屋又兵衛) · Public domain

朝廷はまず東の将門を討つことに力を注ぎ、西の純友には、940年の初めに従五位下の位を与えて懐柔しようとした。だが2月に将門が討たれると、純友への手当ては後回しにされたまま、純友の勢力は広がった。940年8月、純友の船団は伊予と讃岐の国府を襲って焼き、備前や備後の兵船を焼き払った。淡路の国の武器庫も襲われた。さらに周防の国では、銭を造る役所が焼かれた。朝廷は小野好古を追捕の長官に任じ、源経基を次官として、西へ兵を送った。

941年5月、純友は九州に渡り、大宰府を襲った。大宰府は九州を治め、外国との交わりの窓口でもあった朝廷の出先の役所である。純友の軍はこれを攻め落として焼き、蓄えられていた財物を奪った。だが、追ってきた朝廷の軍が博多の津で純友の船団と戦い、これを打ち破った。純友の側の船は八百艘あまりが奪われたと記録されている。この戦いでは、のちに九州に根を下ろす大蔵春実らが活躍したと伝えられる。

平将門の肖像
平将門の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

敗れた純友は、小舟で伊予へ逃げ帰った。そして941年6月、伊予の警固使の橘遠保に捕らえられ、獄の中で死んだ。討ち取られたとする記録もある。純友の子の重太丸も殺され、純友の一味の残党も、その年のうちに各地で討たれた。

この純友の乱と、同じころの将門の乱をあわせて、当時の年号から承平・天慶の乱と呼ぶ。東と西でほぼ同時に起きた二つの大きな反乱は、朝廷に大きな衝撃を与えた。それと同時に、朝廷が自分の力で反乱を鎮めることができず、地方の武芸に長けた者たちの力を借りなければならないことを、はっきりと示した。乱を鎮めた者たちは恩賞を受け、地方で武士として力を蓄えていく。

歌川国芳画
藤原純友Wikimedia Commons Utagawa Kuniyoshi · Public domain

純友を討つ軍の次官を務めた源経基は、清和天皇の孫とされ、清和源氏の祖と仰がれた。その子孫の源頼義、源義家は東国の武士を率いて名を上げ、さらに後に鎌倉の幕府を開く源頼朝へとつながる。朝廷の外で生まれた武力が、やがて朝廷そのものを動かすようになる長い流れは、この10世紀の反乱から始まっている。

同じ時代のできごと

渤海の滅亡AD926年コルドバのカリフ宣言AD929年アルシングの開設AD930年紀貫之『土佐日記』とかな文字AD935年(承平5年)ごろメディナ・アッザフラーAD936年大理国の成立AD937年白藤江の戦いAD938年平将門の乱AD939年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD939年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →