できごと

廃藩置県

Abolition of the han system
1871年8月29日(明治4年7月14日)
重要度 5
廃藩置県に関わる図版:Modern Japan prefectures map in 1872
Modern Japan prefectures map in 1872 Wikimedia Commons Yoshida Togo (1860-1932) et al · Public domain

概要

藩を廃して県を置いた。260年続いた分権の仕組みが一日で消え、中央集権国家になる。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(2)

大久保利通1830年–1878年 · 主導木戸孝允1833年–1877年 · 主導

本文

1869年の版籍奉還で、諸藩の大名は土地と人民を天皇に返した。だが実際には、旧藩主がそのまま知藩事に任じられ、藩の役所も、藩の軍隊も、藩ごとの年貢の取り立ても残っていた。中央の政府が直接治めているのは、旧幕府の領地などわずかな府県だけで、全国の税の多くは藩を通して流れていた。

政府の指導者たちは、これでは国の形が整わないと考えていた。兵制を統一することも、税を全国で揃えることもできない。一方で、藩の側も苦しかった。戊辰戦争の戦費と、江戸時代から積み重なった借金で、財政が行き詰まっている藩が多かった。自ら廃藩を願い出る小藩も現れていた。

小堀鞆音筆『廃藩置県』(聖徳記念絵画館所蔵)
小堀鞆音筆『廃藩置県』(聖徳記念絵画館所蔵)Wikimedia Commons Tomoto Kobori - 1864-1931 · Public domain

明治4年(1871年)の初め、政府は薩摩・長州・土佐の三藩から兵を出させ、約1万の御親兵を東京に集めた。政府が自分の意思で動かせる初めての軍隊である。鹿児島に戻っていた西郷隆盛も、上京してその中心に立った。

計画は、ごく少人数で密かに練られた。7月9日、東京の木戸孝允の屋敷に、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、井上馨、山県有朋らが集まり、廃藩の断行を決めた。土佐・肥前の首脳に知らされたのは、その直前だったとされる。もし反乱が起きたらどうするかという議論に、西郷が、そのときは自分が兵を率いて鎮める、と言い切ったと伝えられる。

大久保利通の肖像
大久保利通Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

7月14日、東京に住む知藩事たちが皇居に呼び出され、廃藩置県の詔書が読み上げられた。藩を廃し、県を置く。知藩事は職を解かれ、東京に住むこととする。各県には中央から府知事・県令が送り込まれる。

府知事や県令には、旧藩主ではなく、多くの場合その土地と縁の無い者が任じられた。旧主と旧臣のつながりを断つためである。藩を「封建」の単位とし、中央から役人を送って治める地方を「郡県」と呼ぶのは、古代中国の言葉に倣ったもので、明治の指導者たちは、封建から郡県へ、という言い方でこの改革を説明した。260年あまり続いた分権の仕組みが、一日で消えた。

木戸孝允の肖像(洋装)
木戸孝允Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

抵抗はほとんど無かった。理由の一つは、藩の借金を政府が引き受ける形にしたことである。一部は切り捨てられたものの、多くの藩にとって廃藩は肩の荷を下ろすことでもあった。旧藩主には家禄が保証され、東京で華族として暮らす道が用意された。もう一つは、御親兵が東京にいたことである。武力の裏付けがあった。

それでも不満がなかったわけではない。薩摩の島津久光は、自分の藩の家臣である西郷や大久保に相談もなく藩を潰されたことに激怒し、その夜、屋敷の庭で花火を打ち上げさせて鬱憤を晴らしたと伝えられる。

庶民の側にも動揺はあった。広島では、旧藩主が東京へ移ることになると、それを引き止めようとする農民が城下に押し寄せ、大規模な一揆になった(武一騒動)。藩主の交代や移封とは違い、領主そのものがいなくなることを、人々はすぐには受け入れられなかった。同じ年の8月には、えた・ひにんの呼び名を廃して身分も職業も平民と同じとする布告が出され、これに反発する一揆も各地で起きている。久光と旧薩摩藩士たちの不満は、後の西南戦争の遠い伏線の一つにもなった。

最初は3府302県が置かれた。旧藩の区域をそのまま県にしただけなので、大きさも形もばらばらだった。同じ年の11月には3府72県に整理され、その後も統合と分割を繰り返して、1888年に今の形に近い1道3府43県に落ち着く。ただし沖縄県が置かれるのは、1879年の琉球処分を経てからである。

琉球処分に関わる図版:Cartoon of Ryukyu Shobun from Marumaru Chinbun 1879-05-24
琉球処分Wikimedia Commons Cartoonist for Marumaru Chinbun 團團珍聞 (ran from 1877 to 1907) · Public domain

廃藩置県の4か月後、岩倉具視を全権とする大使節団が、欧米へ向けて横浜を発った(岩倉使節団)。国内の体制を一新した直後に、政府の首脳の半分近くが1年半以上も国を空けたことになる。留守を預かった西郷らは、学制、徴兵令、地租改正と、統一された国家の仕組みを次々に作っていった。

廃藩置県によって、武士は主君を失った。家禄はしばらく国から支払われたが、それも数年後には打ち切られる。武士という身分は、この一日を境に、ゆっくりと消えていくことになった。

家禄の支払いは国の歳出の3割ほどを占める重荷で、1876年、政府は家禄を一時金の公債に切り替えて打ち切った(秩禄処分)。同じ年には帯刀も禁じられる。職と誇りを失った士族の不満は、熊本・秋月・萩の反乱を経て、1877年の西南戦争で頂点に達する。廃藩置県の痛みは、6年遅れて噴き出したともいえる。

出典(1)

磯田道史 『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』第5章

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