以仁王の挙兵

概要
後白河の子で、清盛に皇位を塞がれた王が、源頼政と共に令旨を諸国の源氏に送った。宇治で追いつかれ、頼政は平等院で自害し、王は逃げる途中で射られた。令旨は死後も生きて、頼朝と義仲が立った。5年の戦争の最初の一か月。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
以仁王は1151年に生まれた後白河天皇の皇子である。学問と和歌、笛に秀でていたと伝えられるが、母の家柄が高くなかったため、親王の位さえ与えられなかった。王を支えたのは、鳥羽天皇の娘で、全国に膨大な荘園を持つ八条院だった。八条院は以仁王を猶子として迎え、その後ろ盾となった。
そのころ朝廷の実権は平清盛の手にあった(平氏政権)。後白河上皇との対立が深まると、清盛は1179年11月、兵を率いて都に入り、上皇を幽閉して院政を止めた。以仁王もこのとき領地の一部を取り上げられている。翌1180年2月、清盛の娘が生んだ3歳の安徳天皇が位に就いた。皇位が平家の血筋で固められ、以仁王が天皇になる望みは断たれた。

挙兵を以仁王に勧めたのは、源頼政だったとされる。頼政は、源氏の中でただ一人、平家の政権のもとで公卿の位にまで昇った老武者で、このとき77歳だった。なぜ頼政が平家に背いたのかは、はっきりしない。
頼政は、1159年の平治の乱(保元・平治の乱)で、同じ源氏の義朝の側を離れて清盛の側についた人物でもある。その後の平家の世を生き抜き、1178年には清盛の推挙で三位に昇っていた。『平家物語』は、息子の愛馬を清盛の子の宗盛に奪われ辱められたことを恨んだ、と語るが、物語の色が濃い。1180年4月、以仁王は、平家を討てと命じる令旨(皇族の命令書)を、東海道、東山道、北陸道の源氏や兵たちに向けて出した。令旨は、熊野にいた源氏の行家が山伏に身をやつして諸国に運んだと伝えられ、伊豆に流されていた源頼朝のもとにも届けられた。

だが5月、計画は平家に漏れた。朝廷は以仁王を臣下の身分に落として土佐へ流すことを決め、検非違使が王の屋敷へ向かう。以仁王は女房の姿に身をやつして逃れ、近江の園城寺(三井寺)にかくまわれた。頼政も一族を率いて合流する。だが頼みにした延暦寺は平家の側に引き寄せられて動かず、以仁王と頼政は、平家に対抗する力を持つ奈良の興福寺を目指して、5月25日の夜、園城寺を出た。
一行は疲れ切り、宇治の平等院で休んだ。追ってきた平家の大軍に対し、頼政の兵は宇治橋の板を外して防いだ。『平家物語』は、橋の上で奮戦する三井寺の僧兵や、足利忠綱が騎馬の兵を率いて川を押し渡る場面を描く。頼政の兵は敗れ、頼政は平等院鳳凰堂の境内で自害した。埋もれ木のように花咲くこともなかったわが身の、最期の果てが悲しい、という意味の辞世が伝わる。以仁王はなおも南へ逃れたが、山城の光明山の鳥居の前で追手の矢に当たり、討たれた。30歳だった。王の顔を見知った者が少なく、討たれたのが本当に王だったのか疑う声もあったという。

挙兵は、わずか十日ほどで潰えた。だが令旨は生き残った。8月、頼朝が伊豆で兵を挙げ、9月には信濃の木曽義仲が立つ。源氏の挙兵は、以仁王の令旨を大義名分とし、王は死なずに東国へ逃れた、という噂まで利用された。鎌倉幕府が編んだ歴史書『吾妻鏡』は、この令旨の文から書き始められている。
一方、清盛は挙兵の直後の6月、都を摂津の福原へ移した(福原遷都)。寺社の勢力が強い京を離れる狙いがあったとされるが、反発は大きく、半年で都は京に戻る。10月には富士川の戦いで平家の追討軍が戦わずに退き、内乱は全国に広がった。以仁王の挙兵は、5年にわたる源平の争乱の最初の一歩だった。

頼政は、のちに鵺という怪物を射落とした武者として語られ、能や浄瑠璃の題材となった。平等院には、頼政が扇を敷いて自害したと伝える「扇の芝」が残っている。