平氏政権
概要
武士が初めて政権の頂点に立った。ただし貴族のやり方を踏襲したため、武士の支持を失っていく。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
平清盛AD1118年–AD1181年 · 当人本文
11世紀の終わりから、朝廷の実権は、位を退いた上皇が握るようになっていた。院政の開始である。上皇たちは、摂政・関白の藤原氏に頼らずに力をふるうため、自分に仕える武士を身辺に置いた。伊勢を地盤とした平氏の一流は、白河上皇と鳥羽上皇に仕えて地位を上げた。平忠盛は瀬戸内の海賊を討って名を上げ、武士として初めて内裏の殿上に上ることを許された。西国の受領を歴任し、宋の商船との取り引きにも関わって、一族に富をもたらした。
その子の平清盛は、都の争いを武力で決める立場に立った。1156年の保元の乱と1159年の平治の乱(保元・平治の乱)で、清盛は後白河の側について勝ち残り、ライバルだった源義朝を滅ぼした。義朝の子の頼朝は殺されずに伊豆へ流された。清盛の継母、池禅尼の命乞いによると『平治物語』などは伝えている。都の武士で、清盛に並ぶ者はいなくなった。

清盛の昇進は、武士としては前例のない速さだった。1160年には武士で初めて公卿の位に上り、1167年には太政大臣に就いた。律令の官職の最高位である。もっとも清盛はわずか3か月ほどでこの職を退き、翌年には病をきっかけに出家した。位は名誉の到達点であって、力の源ではなかった。力は、一族が握る官職と国々、そして上皇との結びつきにあった。
清盛は、一族の娘たちを有力な貴族の家に嫁がせ、娘の徳子を高倉天皇の中宮に入れた。1178年に徳子が皇子を産むと、1180年にその子を数え3歳で即位させた。安徳天皇である。清盛は天皇の外祖父となった。娘を天皇に嫁がせ、生まれた皇子を位に就け、外戚として朝廷を動かす。それは、かつて藤原道長がたどった道と同じだった。

一門の者たちは高い官職を占め、『平家物語』によれば、日本の60あまりの国のうち30を超える国を一門が治めた。清盛の妻の弟である平時忠が、この一門でない者はみな人でなしだ、という意味のことを言ったと同じ物語は伝える。「平家にあらずんば人にあらず」として知られる言葉である。物語は平家の滅亡を描くために書かれており、言葉どおりに受け取ることはできないが、一門への反感が広がっていたことはうかがえる。
清盛が目を向けていたのは、都の中だけではなかった。摂津の福原(いまの神戸)に別荘を構え、大輪田泊の港を改修して、人工の島を築いて船を風と波から守った。宋の商船を瀬戸内の奥まで招き入れ、1170年には後白河法皇が福原で宋の人に会っている。天皇や上皇が外国人と直接会うのは、当時として異例のことだった。宋からは陶磁器や書物、薬とともに、大量の銅銭が入ってきた。この宋銭が日本の国内に広く出回り、やがて年貢や取り引きに銭が使われていく下地になった。安芸の厳島神社を厚く信仰し、社殿を整えたのも清盛である。
権力が大きくなるほど、敵も増えた。後白河法皇との関係は、清盛の妻の妹で法皇の妃だった建春門院が1176年に亡くなると急速に冷えた。翌年には法皇の近臣たちが平氏を倒す相談をしたとされる鹿ケ谷の陰謀が発覚する。1179年、清盛はついに兵を率いて都に入り、法皇を幽閉し、関白以下の多くの貴族を解任して、一門と親しい者たちを後に据えた。武力で朝廷を押さえたこの政変から、平氏政権が本当に始まったと見る研究者も多い。

だが、それは長く続かなかった。1180年、後白河の皇子の以仁王が平氏を討てという命令を諸国の源氏に送る。以仁王はすぐに討たれたが、その年の夏、伊豆で頼朝が兵を挙げ、木曽では源義仲が続いた。清盛は同じ年、都を福原遷都で摂津へ移そうとしたが、反対が強く、半年ほどで京へ戻している。1181年閏2月、清盛は激しい熱病で亡くなった。それから4年後の1185年、平氏の一門は壇ノ浦の戦いで滅んだ。
平氏政権は、古い貴族のやり方に乗った武士の政権だったと長く言われてきた。東国の武士たちが求めていたのは、自分たちの土地を守り、手柄に報いてくれる主人であり、都の位ではなかった。清盛はそれに応える仕組みを十分に作れなかった。都から遠く離れた鎌倉に本拠を置き、御家人の土地を保証することを政権の柱にした源頼朝のやり方は、この失敗を見た上でのものだったとされる。一方で近年は、平氏が家人を国々の地頭に任じたり、畿内に軍事の指揮官を置いたりしていたことに注目し、のちの鎌倉幕府の成立の先駆けとして、最初の武家政権と評価する見方も強まっている。