楠木正成
概要
河内の土豪が後醍醐の夢に現れた、と『太平記』は言う。赤坂と千早の城で幕府の大軍を翻弄した。湊川で死ぬと知って出陣し、弟と「七度生まれ変わって朝敵を滅ぼす」と言って刺し違えた。明治に大楠公になり、皇居の前に騎馬像が立つ。
所属
日本関わったできごと(2)
建武の新政AD1333年 · 忠臣湊川の戦いAD1336年7月4日 · 戦死本文
楠木正成の前半生は、ほとんど分かっていない。生年は1294年とされるが、確かな根拠はない。本拠は河内の金剛山の西麓、赤坂のあたりで、のちに橘氏の子孫を名乗った。幼名を多聞丸といい、信貴山の毘沙門天に祈って授かった子だという話は、後世の伝えである。

出自については説が分かれる。荘園領主や幕府の支配に従わない武装勢力、いわゆる「悪党」の一人とみる説、金剛山周辺で採れる水銀などの流通に関わった土豪とみる説がある。鎌倉幕府の記録に「楠木」の名が見えることから、もとは北条得宗家に仕える御家人の一族で、駿河から河内に移ったとする説も近年唱えられている。いずれにせよ、正成は地域に根を張り、山の地形と人の動かし方に通じた武士だった。
1331年、後醍醐天皇は倒幕の計画が漏れて京を逃れ、山城の笠置山にこもった(元弘の変)。軍記物語『太平記』は、このとき天皇が、南に枝を伸ばした大木の下に玉座がある夢を見て、「木」に「南」で「楠」、楠木という武士を召したと語る。参上した正成は、天下に正成一人が生きていると聞かれたならば、天皇の運は必ず開けると思ってほしい、と答えたという。

笠置山はまもなく落ち、天皇は捕らえられて隠岐へ流された。正成は河内の赤坂城で挙兵し、幕府の大軍を相手に戦った。城は急ごしらえの小さな砦だったが、『太平記』によれば、城壁に取りつく敵に大木や熱湯を浴びせて退けた。兵糧が尽きると、城に火を放って自害したように見せかけ、ひそかに姿を消した。
翌1332年の末、正成は再び現れ、赤坂城を奪い返した。1333年の初め、幕府は大軍を河内に送り、正成は金剛山の千早城にこもった。『太平記』は、千人足らずの城兵に対し、攻める側を百万と書く。数字は誇張だが、山の城を落とせない幕府の姿は諸国に伝わった。千早城が持ちこたえるあいだに、隠岐を脱した後醍醐天皇のもとへ各地の武士が集まり、足利高氏(のちの足利尊氏)が京の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とした。1333年5月、鎌倉幕府は滅んだ。

京に戻った天皇は親政を始めた(建武の新政)。正成は河内と和泉の守護などに任じられ、記録所や雑訴決断所といった新政の役所にも名を連ねた。河内の土豪が、朝廷の政治の中枢に席を得たのである。
しかし新政は武士たちの不満を集め、1335年、足利尊氏が背いた。翌1336年の初め、正成は新田義貞や北畠顕家とともに京で尊氏の軍を破り、九州へ追いやった。足利方の記録『梅松論』は、このとき正成が、尊氏と和睦すべきだと進言して退けられたと伝える。

同じ年の春、尊氏は九州で勢いを取り戻し、大軍で東へ攻め上ってきた。『太平記』によれば、正成は、天皇がいったん比叡山に移り、敵を京に引き入れて兵糧を断ってから挟み撃ちにする策を説いたが、公家の坊門清忠に、天皇が一年に二度も都を離れるのは帝位を軽んじることだと退けられた。正成は、命令に従うほかないと言って兵庫へ向かった。途中の桜井の宿で、11歳の息子正行を河内へ帰したという「桜井の別れ」の場面も『太平記』にあるが、史実かどうかは確かでない。
延元元年(建武3年)5月25日、正成は摂津の湊川で足利軍と戦った(湊川の戦い)。数で大きく劣る楠木勢は奮戦の末に崩れた。『太平記』は、正成が弟の正季に最後の願いを尋ね、正季が七度人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼしたいと答え、兄弟が刺し違えて死んだと書く。正成は40代前半だったとみられる。

長男の正行は、1348年、河内の四条畷で足利方の大軍と戦って死んだ。出陣の前、吉野の如意輪寺の扉に、生きて帰らない決意を詠んだ歌を鏃で刻んだと伝えられる。三男の正儀は南朝の中心として戦ったが、一時は北朝に降り、のちに南朝へ戻った。南朝が消えると、楠木の家も歴史の表から消えた。
正成は長く、天皇に背いた側の家として「朝敵」の扱いを受けた。1559年、子孫を名乗る楠木正虎が松永久秀の仲立ちで朝廷に願い出て、ようやく赦免された。江戸時代には『太平記』が広く読まれ、1692年、水戸の徳川光圀が湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建てた。幕末の志士たちは正成を手本として仰いだ。

明治になると、正成は「大楠公」として天皇への忠義の模範とされた。1872年に湊川神社が創建され、1900年には、住友家が別子銅山の開坑200年を記念して献納した騎馬像が、皇居外苑に据えられた。原型の制作には高村光雲らが加わった。昭和の戦争では、「七生報国」の言葉が特攻隊員の鉢巻に書かれた。戦後、正成は教科書から大きく姿を消したが、皇居前の騎馬像はいまも同じ場所に立っている。