できごと

嘉吉の乱

Kakitsu Incident
AD1441年7月12日(嘉吉元年6月24日)
重要度 4
シベリアの諸集団白帳ハン国明チベットパガン朝アユタヤ朝日本朝鮮王朝スコータイ朝大越大越アイヌモシリチャンパAD1441年7月12日(嘉吉元年6月24日)京都
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1441年7月12日(嘉吉元年6月24日)の版図を描いています(13勢力)。

概要

将軍足利義教が赤松満祐の屋敷で猿楽を見ている最中に斬られた。「万人恐怖」の将軍。守護を潰し、比叡山を焼き、公家を殴らせた。誰も赤松を討とうとせず、幕府の力が見えた。応仁の乱の26年前。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

本文

1428年、室町幕府の4代将軍足利義持が、後継ぎを決めないまま死んだ。一人息子の5代将軍義量はすでに若くして死んでおり、残る候補は、いずれも出家していた義持の四人の弟だった。重臣たちは、石清水八幡宮の神前でくじを引き、神に選ばせることにした。当たったのは、比叡山延暦寺の頂点の天台座主まで務めた義円である。義円は還俗して名を改め、6代将軍足利義教となった。「くじ引き将軍」と陰で呼ばれた。

神に選ばれた将軍は、自分の権威を疑わなかった。義教は、祖父の足利義満の時代のような強い将軍の力を取り戻そうとした。義持がやめていた明との勘合貿易を再開し、守護大名の家の跡継ぎに口を出し、従わない者は容赦なく罰した。延暦寺とは激しく対立し、1435年には延暦寺の代表の僧たちを京都に呼び出して首をはねさせた。抗議した僧たちは根本中堂に火を放ち、その中で命を絶った者もいたと伝えられる。

足利義教
足利義教Wikimedia Commons ja : 不詳( 瑞渓周鳳 賛、 足利義政 花押) en : Unknown (inscription by Zuikei Shūhō , signature by Ashikaga Yoshimasa ) · Public domain

罰は、身近な者にも及んだ。宴の席で笑ったと咎められた者、料理が気に入らないと罰された料理人、将軍の機嫌を損ねて所領を奪われた公家の話が、当時の日記には数多く記されている。公家の日野義資は、妹が将軍の子を産んだ祝いに訪れた人々まで処罰された上、何者かに殺された。能を大成した世阿弥が佐渡に流されたのも、義教の時代である。伏見宮貞成親王はその日記に、「万人恐怖」と書きつけた。

関東では、幕府に反抗的だった鎌倉公方の足利持氏を攻め、1439年に自害させた(永享の乱)。1440年には、持氏の遺児を担いで挙兵した結城氏を攻め、翌年に城を落とした。同じ1440年、有力な守護だった一色義貫と土岐持頼を、出陣先で討たせている。次は誰か。守護たちは、自分の番が来るのを恐れた。

細川持之
細川持之Wikimedia Commons Unknown · Public domain

播磨、備前、美作を治める赤松満祐も、その一人だった。義教は赤松の一族の中で、満祐の家とは別の流れの赤松貞村を引き立てていた。満祐の弟の所領が取り上げられて貞村に与えられ、やがて満祐の家そのものも危ないという噂が広がった。満祐は病と称して出仕しなくなった。

1441年6月24日(西暦では7月12日)、満祐の子の教康は、結城合戦の勝利の祝いとして、義教を京都の西洞院二条の屋敷に招いた。義教は、少ない供を連れてやって来た。宴が進み、猿楽が演じられているさなか、屋敷の奥で馬が放たれたような物音がして、門が閉ざされた。物陰から現れた武装した者たちが義教に斬りかかり、首を取った。同席していた大名の中には、斬られて傷を負い、後に死んだ者もいたが、多くは逃げ出した。貞成親王は、将軍がこのような犬死にをした例は昔から聞いたことがない、と記し、同時に、自分の行いの報いだろうか、とも書いた。

満祐は屋敷に火を放ち、義教の首を持って播磨へ引き上げた。驚くべきことに、幕府はすぐには追手を出さなかった。管領の細川持之をはじめ、大名たちは互いの出方をうかがい、討伐の軍の動きは鈍かった。しかもその年の秋には、京都の周りの農民たちが借金の帳消しを求めて一斉に立ち上がり(嘉吉の土一揆)、幕府は徳政令を出してこれに屈した。9月、山名持豊(のちの宗全)らの軍が播磨の城山城を攻め落とし、満祐は自害した。教康も逃げた先の伊勢で殺された。赤松の領国の多くは、功のあった山名氏のものとなった。

義教の死の後、幼い義勝(数え9歳)が7代将軍となったが、2年ほどで死に、その弟で同じく幼い義政が8代将軍を継いだ(足利義政)。将軍の力は戻らず、細川氏と山名氏という二つの大きな家が幕府の実権を争うようになる。1443年には、内裏が襲われて神器が奪われる事件まで起きた。赤松氏は、のちに奪われた神器を取り戻した功で再興を許され、旧領の回復を目指して山名氏と争う。こうしたもつれが重なって、26年後、応仁の乱が始まった。

応仁の乱に関わる図版:Onin-War-1467-1477-The-Battle-of-Onin-by-Utagawa-Yoshitora
応仁の乱Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

嘉吉の乱は、将軍が殺されても、幕府がそれをすぐに罰する力さえ持たないことを、世に見せつけた。義教を「万人恐怖」の暴君とする見方がある一方で、室町の将軍の中で最も強く権力をふるい、幕府の力を取り戻しかけた人物として評価する研究者もいる。彼が生きていれば応仁の乱は無かったのか、彼の強引さが乱の種をまいたのか。答えは一つではない。

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