できごと

厳島の戦い

Battle of Itsukushima
AD1555年10月16日(天文24年10月1日)
重要度 4
明チベットイスラムとヒンドゥーの諸国アユタヤ朝Koryaks日本シャン諸邦大越朝鮮王朝Itelmen大越ビルマの諸王国カンボジアラオスアイヌモシリPeguAD1555年10月16日(天文24年10月1日)厳島
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概要

大内義隆を殺して大内の実権を取った陶晴賢2万を、毛利元就4000が厳島に誘い込み、嵐の夜に裏から上陸して朝に襲った。狭い島で大軍は動けず、晴賢は自害した。毛利は大内の領国を取り、中国地方10か国。「謀多きは勝ち、少なきは負ける」。

場所

厳島
34.30°N 132.32°E · 広島県廿日市市

関わった人(1)

毛利元就AD1497年4月16日–AD1571年7月6日 · 誘い込んだ

本文

16世紀の半ば、中国地方の西半分から北九州にかけては、山口を本拠とする大内氏の領国だった。当主の大内義隆は、周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前の守護を兼ね、明や朝鮮との貿易で富を蓄えた。都から公家や文化人を迎えて、山口は「西の京」と呼ばれるほどの文化の町になり、1551年にはフランシスコ・ザビエルにも布教を許している。しかし義隆が文化に傾き、武断派の家臣を遠ざけるようになると、家中には不満がたまっていった。

1551年、重臣の陶隆房が兵を挙げて山口を襲い、義隆は長門の大寧寺に逃れて自害した。隆房は、豊後の大友宗麟の弟の晴英を迎えて大内家の当主に立て(のちの大内義長)、自らは名を晴賢と改めて実権を握った。

ItsukushimaTorii7396
Wikimedia Commons Public domain

安芸の国人だった毛利元就は、大内氏の傘下で力を伸ばしてきた武将である。陶晴賢の謀反には初め協力し、安芸の中で勢力を広げた。だが晴賢が毛利の勢いを警戒するようになると、両者の関係は悪化し、1554年、元就はついに晴賢と手を切った。元就は安芸の陶方の城を落とし、同じ年、折敷畑の戦いで陶の軍を破った。それでも、動員できる兵の数では陶方が圧倒的に多かった。

元就は、正面から大軍と戦うことを避け、敵を狭い場所に引き込むことを考えた。元就は厳島に宮尾城を築いて兵を入れた。厳島は安芸の海に浮かぶ島で、大内方の水軍が通る海の道を押さえる位置にある。伝えによれば、元就は、宮尾城を築いたのは失敗だった、ここを攻められたら困る、という噂を流し、家臣の桂元澄に陶方へ寝返るという偽りの手紙を送らせて、晴賢を島へ誘ったという。陶方の有力な武将の江良房栄が、元就の策略で晴賢に疑われて殺されたとも伝えられる。こうした話の多くは江戸時代の軍記物によるもので、どこまでが史実かは分からない。

月岡芳年『大日本名将鑑 毛利元就』ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵
月岡芳年『大日本名将鑑 毛利元就』ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵Wikimedia Commons 月岡芳年 · Public domain

1555年9月、晴賢は大軍を率いて厳島に渡り、宮尾城を囲んだ。兵の数は2万とも3万とも伝えられるが、実際にはもっと少なかったとする見方もある。毛利の兵は4000ほどだった。元就は伊予の村上水軍に援けを求めていたが、来島の水軍が到着したのは戦いの直前だった。

9月30日の夜、海は嵐で荒れていた。元就はその風雨にまぎれて、次男の吉川元春とともに自ら本隊を率いて島の東の裏側の包ヶ浦に上陸し、夜のうちに山を越えて陶の本陣の背後に回った。三男の小早川隆景が率いる別の隊は、海から正面に回り込んだ。10月1日の明け方、毛利軍は山の上から陶の本陣を一斉に襲った。狭い島の上で、大軍は身動きがとれずに混乱した。陶の兵は海辺へ追い詰められたが、乗ってきた船は毛利と村上の水軍に押さえられ、逃げ道がなかった。晴賢は島の西へ逃れて船を探したが見つからず、自害した。35歳だったとされる。

勝利のあと、元就は大内氏の領国へ攻め込んだ。周防と長門を平定し、1557年には大内義長を長門の長府に追い詰めて自害させた。西国の名門大内氏は、ここに滅びた。元就はさらに出雲の尼子氏と争い、1566年に月山富田城を降して、中国地方のほとんどを支配する大名になった。厳島の戦いのとき元就は59歳で、安芸の一国人にすぎなかった毛利家が、西国の大大名へ飛躍する転機になった。厳島の戦いは、桶狭間の戦い、河越夜戦と並んで、少ない兵が大軍を破った戦国の三大奇襲の一つに数えられることがある。

桶狭間の戦いに関わる図版:Bishū Okehazama-gassen
桶狭間の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

厳島は、島そのものが神として祀られてきた聖なる島である。戦いのあと、元就は戦死者の遺体を対岸に運ばせ、血で汚れた社殿の周りの土を削り、潮で清めさせたと伝えられる。元就はその後、厳島神社を深く崇敬し、社殿の修理にも力を尽くした。元就の死後に広まった「三本の矢」の逸話は、息子たちに結束を説いた元就の手紙をもとに、後世に作られたものである。

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