江戸幕府の成立
概要
260年続く体制が始まった。参勤交代と身分制で、戦の無い時代を長く保つ。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(2)
徳川家康AD1543年–AD1616年 · 当人徳川秀忠AD1579年5月2日–AD1632年3月14日 · 2代本文
1603年2月、伏見城にいた徳川家康のもとに、朝廷から征夷大将軍に任じる使者が来た。関ヶ原の戦いから2年余り、家康は62歳になっていた。家康はもとは三河の松平氏の出で、1566年に徳川と改姓し、のちに源氏の流れを称した。征夷大将軍は源氏の棟梁が就く職とみなされていたから、系図もその準備の一つだった。これで武家の頂点に立つ名目がそろい、江戸に幕府を開く形が整った。
もっとも、天下はまだ一つではなかった。大坂城には豊臣秀吉の遺児豊臣秀頼がいて、西国の大名には豊臣の恩を感じる者が多かった。家康は形式のうえでは豊臣家の家臣だった時期もある。征夷大将軍という地位は、関白を世襲する豊臣家とは別の筋の権威を立てることでもあった。
将軍になって2年後の1605年、家康は職を三男の徳川秀忠に譲った。将軍の地位は徳川家が受け継ぐものだと、早いうちに世に示すためとされる。自分は大御所として駿府に移ったが、外交や大名の統制など大事な決定は握り続けた。江戸と駿府の二つの中心が並び立つ形である。
1614年と翌年の大坂の陣で、豊臣家は滅んだ。家康は、秀頼が再建した方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字が自分の名を裂いて呪うものだと難癖を付け、戦の口実にしたと伝えられる。その直後の1615年、幕府は一国一城令を出し、大名の居城を一つに限って残りの城を壊させた。同じ年に武家諸法度を定め、城の修理を届け出制にし、大名どうしが勝手に縁組みすることを禁じた。朝廷と公家に対しても法度を定め、天皇は学問を第一とすべきだと書いた。家康は翌1616年に死ぬ。体制の骨組みは、最後の数年で一気に組み立てられた。

大名は、徳川一門の親藩、関ヶ原以前から仕えた譜代、関ヶ原前後に従った外様に分けられた。江戸の周囲や東海道、京都・大坂の近くといった要地は親藩と譜代で固め、大きな領地を持つ外様は九州、中国、東北などの遠国に置いた。譜代は石高が小さくても老中などの幕府の要職に就き、外様は大きな領地を持っても政治の中枢からは外された。力と権限を分けておく仕組みである。武家諸法度はその後、将軍が代わるたびに改めて出され、江戸城に集めた大名の前で読み上げられた。新しい将軍に従うことを、そのたびに確かめさせる儀式でもあった。
規則に背いた大名は、容赦なく取り潰された。家康から3代将軍徳川家光までのあいだに、跡継ぎがいない、城を無断で修理したなどの理由で、多くの大名家が改易された。秀吉に重く用いられた福島正則も、城の無断修理を咎められて領地を奪われている。

1635年、家光の改めた武家諸法度で、参勤交代の制度化が制度になった。大名は1年おきに江戸と領地を行き来し、妻子は江戸に住まわせる。行列の費用と江戸屋敷の暮らしは、多くの藩で財政の大きな部分を食った。そのぶん軍備に回せる金が減り、妻子は事実上の人質になる。一方で街道と宿場が整い、江戸には全国の武士が集まって、文化や情報が行き交う道にもなった。
対外関係も絞られていった。1614年にキリスト教を禁じ、1637年に九州で起きた島原の乱の後、ポルトガル船の来航を禁じた。1639年に鎖国の完成と呼ばれる体制が整う。ただし国を完全に閉ざしたのではなく、長崎でのオランダ・中国との貿易、対馬を通じた朝鮮、薩摩を通じた琉球、松前を通じたアイヌとの窓口は開かれていた。

江戸の町も、この時代に作られた。1590年、秀吉の天下統一の仕上げとして関東へ移されたとき、家康が入った江戸は入り江に面した城下にすぎなかった。その後、全国の大名に工事を割り当てる「天下普請」で、丘を崩して入り江を埋め、堀と上水を整えた。18世紀には人口100万前後ともいわれる、世界でも有数の大都市になる。
こうして1867年の大政奉還まで、264年にわたって徳川の幕府が続いた。島原の乱のような大規模な反乱はあったが、大名どうしが戦う内戦は起きなかった。戦が無いことで、武士は戦う者から役所で働く者へと変わっていき、農業や商業、出版や芸能が育った。

一方で、この体制は、変わらないことを前提に組まれていた。幕府の財政は年貢の米に頼り、商業の成長に追いつけなかった。外交の窓口を限ったことで、外の世界の変化は長崎経由の限られた情報でしか入ってこなかった。1853年、黒船来航の艦隊が来ると、幕府は大名に意見を求めた。政治に口を出させないことで保ってきた体制が、自ら意見を求めたことで、その前提を崩し始める。15年後、幕府は倒れた。