真田信繁(幸村)
概要
真田昌幸の次男。上杉、秀吉の人質。関ヶ原で父と西軍、兄信之は東軍。九度山に14年。大坂に入り、真田丸で徳川を叩き、夏、茶臼山から家康本陣に3度突っ込んで、旗を倒させた。安居神社で首を取られた。「日本一の兵」。幸村の名は江戸時代の講談から。
関わったできごと(1)
大坂の陣AD1615年6月4日(慶長20年5月8日) · 本陣に突っ込んだ本文
1567年、信濃の小県(今の長野県上田市のあたり)を本拠とする真田昌幸の次男として生まれた。1570年生まれとする説もある。通称は源次郎、名は信繁である。今日広く知られている「幸村」という名は、本人の生きていたころの手紙や記録には一度も出てこない。江戸時代の前半、1672年に書かれた軍記『難波戦記』のあたりから使われ始め、講談や小説を通じて広まった名である。

真田家は、甲斐の武田氏に仕えて信濃の山間に地盤を築いた小さな家だった。1582年、主家の武田氏が織田信長に滅ぼされ、その信長も本能寺で倒れると、信濃は徳川、北条、上杉という大きな勢力の奪い合いの場になった。昌幸は、主を次々に替えながら生き残りを図った。1585年、徳川家康が、北条との和睦のために真田の領地である上野の沼田を北条に渡せと命じると、昌幸はこれを拒み、上杉に寝返った。怒った家康は7000ほどの兵で上田城を攻めたが、昌幸は2000ほどの兵で城下に敵を引き込んで打ち破った。第一次上田合戦である。
このとき、上杉の援助を得る見返りとして越後に人質に出されたのが、10代の信繁だった。やがて真田家が豊臣秀吉に従うと、信繁は大坂に移り、秀吉の側近く仕える立場になった。秀吉は信繁を気に入り、重臣の大谷吉継の娘を妻として与えた。この結びつきが、信繁の運命を決めることになる。

1600年、家康が会津の上杉を討つために兵を東へ向けていたとき、大坂で石田三成が家康に対して兵を挙げた。下野の犬伏の陣で知らせを受けた昌幸と、長男の信幸(のちの信之)、次男の信繁は、一晩話し合った。信幸は徳川の重臣本多忠勝の娘を妻にしていて、家康につくことを選んだ。昌幸と信繁は、豊臣方の西軍につくことにした。どちらが勝っても真田の家が残るように、という計算もあったと言われる。
昌幸と信繁は上田城に戻り、中山道を西へ向かう徳川秀忠の3万8000の大軍を迎え撃った。秀忠は小さな上田城を落とせないまま何日も足止めされ、ついに関ヶ原の戦いの本戦に間に合わなかった。家康は息子に激怒したと伝えられる。

だが、西軍は関ヶ原で敗れた。昌幸と信繁は死罪になるはずだったが、信之とその舅の本多忠勝が懸命に命乞いをした結果、紀伊の高野山のふもとの九度山に流されることになった。
九度山での暮らしは14年に及んだ。浪人の暮らしは苦しく、兄の信之からの仕送りに頼った。昌幸は1611年、ふたたび世に出ることなく、この地で亡くなった。信繁が親しい人々に宛てた手紙が残っている。歯が抜け、ひげも黒いところが少なくなった、すっかり老いてしまった、と自嘲している。焼酎を送ってほしいと頼む手紙もある。真田家の者が「真田紐」と呼ばれる丈夫な平たい紐を編んで売り、暮らしを立てたという話も伝わるが、確かではない。
1614年、豊臣家と徳川家の対立がついに戦に至ると、豊臣秀頼の大坂城は全国の浪人たちに参戦を呼びかけた。信繁は九度山を抜け出して大坂城に入った(大坂の陣)。

大坂城はもともと難攻不落の城だったが、南側だけは地形が平らで守りが弱かった。信繁は、その南の外側に「真田丸」と呼ばれる出城を築いた。冬の陣の12月、前田利常や井伊直孝、松平忠直らの軍勢がこの出城に攻めかかると、信繁は敵を十分に引きつけてから鉄砲を浴びせ、大きな損害を与えて撃退した。冬の陣で徳川方が喫した最大の敗北だった。
冬の陣は和議で終わったが、その条件として大坂城の外堀と内堀は埋め立てられ、真田丸も壊された。この間、家康は信繁の叔父を使者に立てて、徳川方に寝返れば信濃で領地を与えると誘ったが、信繁は断ったと伝えられる。
1615年の夏、戦いは再び始まった。堀を失った大坂城に籠城の道はなく、豊臣方は城の外で戦うしかなかった。5月6日、信繁は道明寺のあたりで伊達政宗の軍と戦い、退く味方の殿を務めた。
翌5月7日、信繁は天王寺口の茶臼山に赤い旗と赤い鎧でそろえた軍勢を率いて陣を敷いた。赤備えと呼ばれる装いである。数で大きく勝る徳川方の前に、豊臣方が崩れていくなか、信繁は3000ほどの兵を率いて、家康の本陣めがけてまっすぐに突き進んだ。前を固める松平忠直の大軍を突き破り、家康の旗本に何度も突撃をくり返した。家康の旗本たちは逃げ散り、家康の馬印が倒された。家康の馬印が倒れたのは、若いころに武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦い以来のことだったという。家康は一時、切腹を覚悟したとも伝えられる。

だが、兵力の差は埋めようがなかった。信繁の軍は力尽き、信繁自身は近くの安居神社の境内で傷ついた体を休めていたところを、越前松平家の鉄砲頭、西尾宗次に討たれた。49歳前後だった。翌日、大坂城は燃え落ち、秀頼と母の淀殿は自害した。信繁の長男の大助も、秀頼に従って自害した。
敵だった側から、信繁をたたえる言葉が残っている。薩摩の島津家の当主は、国元への手紙に、真田は日本一の兵、昔の物語にもこれほどの者はいない、と書き送った。
真田家の血は、意外なところで残った。信繁の娘の一人は、伊達家の重臣片倉重長の妻となり、信繁の次男もその縁で片倉家に保護された。その子孫は仙台藩で真田の名を名乗って続いた。兄の信之は信濃の松代藩10万石の大名として真田家を守り、90歳を超えるまで生きた。
江戸時代、信繁の姿は講談や読み物の中で大きく膨らんでいった。「幸村」の名で、知略に優れた軍師として描かれ、大正時代には真田十勇士と呼ばれる架空の家来たちとともに、少年たちの英雄になった。史実の信繁は、九度山で老いを嘆いた浪人であり、最後の一日に命を燃やし尽くした武将だった。その落差が、かえって人々を惹きつけ続けている。