人物

平将門

Taira no Masakado
? – AD940年
日本重要度 4

概要

一族の争いから国衙を襲い、関東八か国を取って「新皇」を名乗った。二か月で藤原秀郷と平貞盛に討たれた。首は京で晒され、東へ飛んで落ちた所が大手町の首塚。祟る神として、いまも祀られている。

所属

日本

関わったできごと(1)

平将門の乱AD939年 · 新皇

本文

平将門の生まれた年は分からない。10世紀の初めごろと考えられている。家は桓武天皇の血を引く。桓武の孫とも曾孫ともされる高望王が、889年ごろ平の姓を受けて臣下となり、上総の国司として関東に下った。その子らは任期が終わっても都に帰らず、常陸・下総・上総の土地に根を張り、開墾した田と馬と郎党を抱える在地の有力者になった。将門の父の良持(良将とも)は鎮守府将軍を務めたと系図は伝える。将門は相馬小次郎とも呼ばれ、下総の豊田や猿島(いまの茨城県西部)を本拠とした。

平将門の肖像
平将門の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

若いころ、将門は京に上り、摂政太政大臣の藤原忠平に仕えた。都の貴族に名簿を差し出して主従の縁を結ぶのは、地方の武人が身分の後ろ盾を得るためのならわしだった。検非違使の職を望んで得られず、それを恨んで東へ帰った、という話もあるが、後世の伝えである。

関東に戻った将門を待っていたのは、一族の争いだった。父が死んだあと、伯父たち、平国香・良兼・良正が、将門の受け継ぐべき土地を奪おうとした、と『将門記』は書く。女性をめぐる争いがきっかけだったという説もあり、本当の原因ははっきりしない。935年2月、常陸の野本で、将門は伯父国香と、国香と姻戚の源護の子らの待ち伏せに遭った。将門はこれを破り、源護の3人の息子を討ち取り、さらに進んで国香の館まで焼いた。国香はこの戦いで死んだ。

月岡芳年「芳年武者旡類 相模次郎平将門」
月岡芳年「芳年武者旡類 相模次郎平将門」Wikimedia Commons Tsukioka Yoshitoshi (Japan, 1839-1892) · Public domain

その後も、良正、そして良兼が次々に将門に挑んだ。937年、良兼は将門の祖父高望王と父良持の肖像を陣の先頭に掲げて攻め寄せた。父の姿に弓を引くことをためらった将門は退き、本拠を焼かれたと『将門記』は伝える。将門は反撃して良兼を追い詰め、一族の争いでは常に勝った。この間、源護の訴えで京に呼ばれて取り調べを受けたが、朝廷の大赦で罪を許されて戻っている。将門の名は武勇とともに関東に広まった。

939年になると、将門は一族の内輪もめを越えて、国司の争いにまで関わり始めた。武蔵国では、新任の国司の興世王らと、足立郡の郡司武蔵武芝が対立していた。将門は仲裁に乗り出し、その縁で興世王が将門のもとに身を寄せた。常陸国では、国司に年貢を納めず追われていた藤原玄明という土豪が将門を頼った。将門は玄明の引き渡しを拒み、11月、兵を率いて常陸の国府を襲った。国司の藤原維幾を捕らえ、国の印と倉の鍵を奪った。国府を攻めるのは、もはや一族の争いではなく、朝廷への反逆だった。

豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」
豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」Wikimedia Commons Toyohara Kunichika · Public domain

『将門記』によれば、このとき興世王は、一国を討っても罪は免れない、どうせなら坂東を全部取って、京の出方を見よう、と勧めた。将門はこれに乗った。12月、下野の国府、上野の国府を次々に落とし、国司たちを京へ追い返した。上野の国府で、一人の巫女が八幡大菩薩の使いと名乗って、位を将門に授けると告げた。その位記は菅原道真の霊が書いたという。将門は「新皇」と名乗り、弟や味方を関東諸国の国司に任じた。下総に都を置くことも定めたとされる。

『将門記』には、将門が京の忠平に宛てたとされる手紙が載っている。自分は桓武天皇の5代の子孫であり、坂東の国々を領しても天の与えるところだ、と述べ、同時に旧主への恩を忘れていないとも書く。『将門記』の作者は分かっていない。乱の直後に書かれたとされ、将門を反逆者としながらも、その言い分と最期に同情を寄せている。

歌川国芳「相馬の古内裏」
歌川国芳「相馬の古内裏」Wikimedia Commons Public domain

京の朝廷は震え上がった。同じころ、瀬戸内海では藤原純友が海賊を率いて暴れていた(藤原純友の乱)。東と西で同時に起きた二つの反乱は、のちに年号をとって承平・天慶の乱と呼ばれる。朝廷は寺社で将門の調伏を祈らせ、将門を討った者には貴族の位を与えると約束した。

討伐軍が都から着くより早く、関東の武士たちが動いた。下野の押領使藤原秀郷と、父国香を将門に殺された平貞盛である。940年2月、農作業の季節で将門の兵の多くは村へ帰っていて、手元には数百人しか残っていなかったと『将門記』は書く。下総の北山での戦いで、はじめ将門は風上に立って優勢だったが、風向きが変わった。将門は馬を駆って自ら突き進み、どこからか飛んできた矢に当たって死んだ。『将門記』はその矢を「神鏑」、神の放った矢と書いている。新皇を名乗ってから、2か月ほどのことだった(平将門の乱)。

平将門の乱に関わる図版:Takedono no Rakugan 高殿落雁 (BM 2008,3037.19902 1)
平将門の乱Wikimedia Commons Print artist: Utagawa Kuniyoshi (歌川国芳) Published by: Enshuya Matabei (遠州屋又兵衛) · Public domain

将門の首は京に送られ、東の市でさらされた。首が夜な夜な胴を求めて叫び、ついには東へ飛び去った、という話が後に生まれた。首の落ちたところとされる場所が、東京の大手町にある将門の首塚である。関東各地に将門を祀る社や塚が残り、江戸の総鎮守となった神田明神も将門を祭神とした。明治になって、天皇に背いた者を祀るのはふさわしくないとして祭神から外されたが、1984年に戻された。大手町の首塚は、関東大震災後に動かそうとすると関係者に不幸が続いた、という祟りの話とともに、いまもビルの谷間で手厚く守られている。

将門と同じころ、京では菅原道真の霊が雷を落として祟ると恐れられ、天神として祀られ始めていた(菅原道真)。無念の死を遂げた者が祟る神となり、祀れば守り神になる。将門もその系譜に加えられた。

神田明神 神額 大鳥居吾朗 謹書
神田明神 神額 大鳥居吾朗 謹書Wikimedia Commons Sg03j · CC BY 4.0

将門を討った秀郷と貞盛は、それぞれ大きな武士の家の祖となった。貞盛の子孫からは伊勢平氏が出て、やがて平清盛が現れる。地方に根を張った武士が、自分の力で土地を守り、国司を追い出し、ついには自ら王を名乗る。将門の乱は短く終わったが、関東の武士が朝廷から離れて自分たちの政権を作る道の、最初の一歩として語られてきた。それが実現するのは、200年あまり後の鎌倉幕府の成立である。

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