源義家
概要
石清水八幡宮で元服。八幡太郎。前九年で父と、後三年で自分で。「天下第一武勇の士」。朝廷は恩賞を出さず、荘園の寄進を禁じ、京に入るのを禁じた。義家は私財で兵に報いた。頼朝の曾祖父の父。武士の源氏は彼から。「衣の館」。
関わったできごと(2)
前九年の役AD1051年(永承6年) · 子後三年の役AD1083年(永保3年) · 勝った本文
1039年、源頼義の長男として生まれた。母は、関東に地盤を持つ武士平直方の娘である。源氏は清和天皇の血を引く一族で、祖父頼信の代から、都の貴族に仕えながら地方の反乱を鎮める「武者」として名を上げていた。義家は京都の南の石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎と呼ばれた。八幡神は弓矢の神とされ、以後この神は源氏の守り神として崇められていく。
最初の大きな戦いは、父とともに出た陸奥の前九年の役だった。陸奥の奥六郡を支配していた安倍氏が国司と争い、朝廷は1051年、頼義を陸奥守として送った。戦いは長引いた。1057年の冬、頼義の軍は黄海で安倍貞任の軍に大敗し、頼義と義家はわずか数騎で囲みを破って逃れた。このときの義家の奮戦を、戦いの記録である『陸奥話記』は詳しく描いている。義家が放つ矢は外れることがなく、敵は神のように恐れて「八幡太郎」の名を口にした、というのである。

頼義の軍は、出羽の豪族清原武則の大軍を味方につけて、ようやく形勢を変えた。1062年、安倍氏の最後の拠点厨川柵が落ち、貞任は討たれた。衣川の館から逃げる貞任に、義家が「衣のたてはほころびにけり」と下の句を投げかけ、貞任が振り返って「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返したので、義家は矢をつがえた手を緩めて見逃した、という有名な話がある。13世紀の説話集『古今著聞集』に載る話で、史実とは考えにくいが、敵味方が歌を交わす武者の姿として長く愛された。
戦いの後、義家は出羽守などを務め、都では院や摂関家に仕える武者として重んじられた。1083年、陸奥守として再び東北に赴いた。前九年の役の後、奥羽の支配者になっていた清原氏が、兄弟と異母兄弟の間で争っていたのである。義家はこの内紛に介入した。初めは当主の真衡を助け、真衡が急死すると、残った清衡と家衡に土地を分け与えて裁いた。ところが家衡は不満を抱き、清衡の館を襲ってその妻子を殺した。義家は清衡の側について家衡と戦った。これが後三年の役である。

戦いは苦しかった。1086年、出羽の沼柵を攻めたときは、雪と寒さで多くの兵が凍え死に、退かざるを得なかった。翌年、家衡が叔父の武衡とともに金沢柵に立てこもると、義家は再び攻めた。都で官職に就いていた弟の義光は、兄の苦戦を聞いて職を辞し、駆けつけたという。戦いの記録『奥州後三年記』には、義家が空を飛ぶ雁の列が乱れたのを見て伏兵に気づき、討ち取った話が載っている。都で学者の大江匡房から、兵が野に伏せていると雁は列を乱す、という兵法を学んでいたからだという。戦のたびに、勇敢に戦った者と臆病だった者を分けて座らせ、兵たちを奮い立たせたとも書かれている。金沢柵は兵糧攻めの末に1087年の冬に落ち、家衡と武衡は討たれた。
だが、朝廷はこの戦いを、義家が勝手に起こした私の戦いとみなした。恩賞は出ず、義家は陸奥守を解かれた。さらに、戦いの間に国の税を納めなかったことを責められ、その後10年近く、国司としての務めを果たしたという認定を受けられなかった。義家は、ともに戦った関東の武士たちに、自分の財産から恩賞を与えたと伝えられる。義家が部下を手厚く扱い、戦で死んだ者の家族の面倒まで見たので、武士たちは義家のためなら命を惜しまなかった、という話も後の時代に語られた。一方、義家が助けた清衡は奥羽を受け継ぎ、平泉を拠点に、奥州藤原氏の100年の栄華を開いていく。

関東や各地の武士たちは、義家を主と仰ぐようになった。自分の土地を、国司の取り立てから守ってもらうために義家に寄進する者も増えた。これを朝廷は危ぶんだ。1091年、義家と弟の義綱の家来どうしが争い、両軍が都で一触即発となったときには、義家の兵が都に入ることを禁じる命令が出された。続いて、諸国の人々が義家に土地を寄進することも禁じられた。一人の武者のもとに地方の武士と土地が集まることを、貴族たちは恐れたのである。
それでも、義家の武名は都で並ぶ者がなかった。当時の貴族の日記には「天下第一武勇の士」と記されている。1098年、白河上皇は義家に院の御所への昇殿を許した。武士としては破格の扱いで、上皇が武士の力を自分の手元に引き寄せようとしたものと見られている(院政の開始)。ただ、これを快く思わない貴族も多かった。

晩年は身内の問題に苦しんだ。跡継ぎと見込んでいた次男の義親は、九州の対馬守として乱暴を働いて訴えられ、隠岐へ流されたが、そこを抜け出して出雲で国司の役人を殺した。1106年、その騒ぎの最中に義家は世を去った。68歳だった。義親は2年後、平正盛によって討たれた。正盛は平清盛の祖父にあたる。その後、源氏は一族の間の殺し合いで力を失い、代わって平氏が院の武力として伸びていく。
義家の名がふたたび輝くのは、その死から80年ほど後のことである。義家の子の義親から為義、義朝と続いた家に生まれた源頼朝は、平氏を倒して鎌倉に幕府を開いた(鎌倉幕府の成立)。頼朝にとって義家は曾祖父の父にあたる。頼朝は東国の武士たちが語り継いできた八幡太郎の記憶を、源氏の棟梁としての自分の正しさの根拠にした。父の頼義が鎌倉に招いた八幡の社は、頼朝のもとで鶴岡八幡宮となった。室町幕府を開いた足利尊氏の足利氏も、新田氏も、義家の子の義国から出ている。

朝廷に使われながら、朝廷から報いられず、自分の力で武士たちを束ねた。そのことが、やがて武士が自分たちの政権を作る素地になった。義家は、武士がまだ「侍」として貴族に仕えていた時代の、武家の祖として記憶されている。