概要
妹婿の浅井長政が朝倉との義理で信長に背き、金ヶ崎で信長は背後を突かれて逃げた。2か月後、姉川。信長と家康2万8000、浅井・朝倉1万8000。徳川が朝倉を崩し、浅井は織田の陣を13段のうち11段まで突いたが、崩れた。川が血で赤くなった、と言う。浅井は3年後に滅びた。
場所
姉川
35.42°N 136.26°E · 滋賀県長浜市
35.42°N 136.26°E · 滋賀県長浜市
関わった人(2)
織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 勝った徳川家康AD1543年–AD1616年 · 朝倉を崩した本文
浅井長政は北近江の大名で、信長の妹の市を妻にしていた。信長は浅井と組んで美濃を取り、京へ上った。浅井は越前の朝倉と古い同盟があり、信長は「朝倉を攻めない」と約束していた、と言う。
1570年4月、信長は朝倉を攻めた。若狭から越前へ入り、金ヶ崎城を落とした。浅井が背いた。挟まれた。信長は殿を秀吉(と光秀と池田勝正)に任せて、朽木越えで京へ逃げた。金ヶ崎の退き口。
6月、信長は浅井の小谷城の前に来て、横山城を囲んだ。浅井は朝倉の援軍と共に来た。6月28日、姉川。織田2万3000、徳川5000。浅井8000、朝倉1万。織田が浅井、徳川が朝倉。
徳川は榊原康政が朝倉の横を突いて崩した。織田は浅井の磯野員昌に「13段の陣のうち11段まで」抜かれた、と徳川側の史料は言う(織田側は言わない)。朝倉が崩れて、浅井も崩れた。浅井と朝倉の死者は1100とも数千とも。川が血で赤くなった、という言い伝えの「血原」「血川橋」の地名が残る。
浅井は小谷城に戻り、3年持った。石山本願寺と比叡山と武田と朝倉が信長を囲む(信長包囲網)中で、浅井は生きた。1573年8月、信長は朝倉を刀根坂で潰し、9月、小谷城。長政は市と3人の娘を信長に返して、自害した。29歳。長政の父久政も。長政の10歳の嫡男は関ヶ原で磔にされた。
翌年の正月、信長は浅井父子と朝倉義景の頭蓋骨に漆を塗って金箔を貼り、家臣に見せた、と『信長公記』。酒を飲んだ、は後の話。