できごと

姉川の戦い

Battle of Anegawa
AD1570年7月30日(元亀元年6月28日)
重要度 3
スペイン帝国明チベットイスラムとヒンドゥーの諸国チュクチKoryaks日本シャン諸邦大越朝鮮王朝Itelmen大越ビルマの諸王国カンボジアアユタヤ朝ラオスアイヌモシリPeguAD1570年7月30日(元亀元年6月28日)姉川
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概要

妹婿の浅井長政が朝倉との義理で信長に背き、金ヶ崎で信長は背後を突かれて逃げた。2か月後、姉川。信長と家康2万8000、浅井・朝倉1万8000。徳川が朝倉を崩し、浅井は織田の陣を13段のうち11段まで突いたが、崩れた。川が血で赤くなった、と言う。浅井は3年後に滅びた。

場所

姉川
35.42°N 136.26°E · 滋賀県長浜市

関わった人(2)

織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 勝った徳川家康AD1543年–AD1616年 · 朝倉を崩した

本文

桶狭間の戦いで今川義元を討った織田信長は、東の三河の徳川家康と同盟を結んで背後を固め、北の美濃へ兵を向けた。そのころ信長は、美濃のさらに西、北近江の小谷城を本拠とする若い大名、浅井長政に妹の市を嫁がせ、同盟を結んでいる。美濃を手に入れた信長は、1568年、足利義昭を奉じて京へ上った。浅井との同盟は、岐阜と京を結ぶ道を確保するうえで欠かせないものだった。

ただ、浅井家には、越前の朝倉家と古くからの深いつながりがあった。信長は浅井に、朝倉を攻めるときには前もって相談する、と約束していたとも伝えられるが、確かな史料はない。将軍の名で上洛を求められても応じなかった朝倉義景を、信長は討つことに決めた。1570年4月、信長は京から若狭を経て越前に攻め入り、敦賀の手筒山城と金ヶ崎城を落とした。

Japan Kinai Sankan topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

そこへ、浅井長政が背いたという知らせが届いた。前には朝倉、後ろからは浅井が迫れば、信長の軍は挟み撃ちになる。信長は全軍を置いて、わずかな供回りとともに、琵琶湖の西の山中の朽木谷を抜けて京へ逃げ帰った。しんがりを務めて追っ手を防いだのは、木下秀吉、のちの豊臣秀吉らである。この撤退は「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる。妹の市が、両端を縛った小豆の袋を兄に送り、挟み撃ちの危険を知らせたという話は、後の時代の創作とされる。岐阜へ戻る途中の山道では、鉄砲で狙撃される危ない目にもあっている。

信長の立ち直りは早かった。わずか2か月後の6月、徳川家康の援軍とともに北近江へ攻め込み、小谷城の南の横山城を囲んだ。浅井長政は朝倉の援軍とともに城を出て、両軍は、小谷城と横山城の間を西へ流れる姉川をはさんで向かい合った。兵の数は、後の軍記物では織田と徳川が合わせて2万8000ほど、浅井と朝倉が1万8000ほどとされるが、当時の確かな記録はない。陣立ては、織田が浅井に、徳川が朝倉に向かい合う形だったとされる。

織田信長の肖像
織田信長Wikimedia Commons Kano Soshu (1551-1601) · Public domain

6月28日の早朝、戦いが始まった。後の軍記物は、浅井の猛将磯野員昌が織田の陣に突っ込み、13段に構えた陣のうち11段までを突き破ったと伝える。一方、徳川の側の記録は、苦戦していた徳川の軍のうち、榊原康政の隊が朝倉の軍の横を突いて崩したことを手柄として語る。朝倉の軍が崩れると、浅井の軍も持ちこたえられず、小谷城へ退いた。信長の家臣が書いた『信長公記』は、討ち取った首が1100あまりにのぼったと記している。ただ、そのどこまでが事実で、どこからが後の家々の手柄話なのかは、見分けにくい。

戦場の近くには、流れた血で川や野が赤く染まったという言い伝えから、「血原」「血川」と呼ばれる地名が残っている。戦いの名も、立場によって違った。姉川の戦いは徳川の側の呼び名で、浅井の側では野村合戦、朝倉の側では三田村合戦と呼んだ。

信長は勝ったが、浅井と朝倉を滅ぼすことはできなかった。横山城を落とし、秀吉を置いて小谷城を見張らせたものの、浅井長政はなお3年、城を守り抜いた。その年の秋には、浅井と朝倉の軍が琵琶湖の西岸を南下して信長の背後を脅かし、比叡山の延暦寺も彼らをかくまった。大坂では本願寺が信長に対して兵を挙げ(石山合戦)、甲斐の武田信玄も西へ動き出す。信長は四方を敵に囲まれた。翌1571年、信長は比叡山を焼き討ちにする。

石山合戦に関わる図版:Utagawa Yoshifuji - The Battle of Ishiyama Hongan-ji
石山合戦Wikimedia Commons Utagawa Yoshifuji · Public domain

包囲が崩れたのは、1573年のことである。武田信玄が陣中で病死すると、信長は将軍義昭を京から追い、8月、越前へ逃げ帰る朝倉の軍を追撃して打ち破った。朝倉義景は一族に背かれて自害し、朝倉家は滅んだ。信長はすぐに軍を返して小谷城を攻め、9月、浅井長政は自害した。29歳だった。長政は落城の前に、市と三人の娘を信長のもとへ送り届けている。長女の茶々はのちに秀吉の側室となって淀殿と呼ばれ、三女の江は徳川秀忠の妻となって3代将軍家光を産んだ。10歳の長男は捕らえられ、処刑された。

翌1574年の正月、信長は岐阜の城での酒宴の席に、漆を塗って金粉で彩った浅井久政・長政父子と朝倉義景の首を、肴として据えた、と『信長公記』は記す。その頭蓋骨で酒を飲んだという話は、後の時代の脚色とされる。妹の夫であり、ともに天下を目指すはずだった浅井長政への、信長の怒りの深さを伝える場面として、この話は語り継がれた。

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