小牧・長久手の戦い
概要
信長の次男信雄が家康と組んで秀吉と対した。秀吉10万、家康1万6000。小牧山で対陣。秀吉の別働隊が三河を突こうとして、長久手で家康に襲われ、池田恒興と森長可が死んだ。秀吉は戦場で家康に勝てず、信雄と講和して家康の梯子を外し、翌年、妹と母を人質に送って家康を臣従させた。
場所
35.29°N 136.91°E · 愛知県小牧市
関わった人(2)
豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 講和で徳川家康AD1543年–AD1616年 · 長久手で勝った本文
1582年の本能寺の変で織田信長が倒れると、明智光秀を討った羽柴秀吉が、織田家の家臣の中で急速に力をつけた。翌1583年、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、大坂に城を築き始める。信長の次男の織田信雄は、初めは秀吉と組んで兄弟の信孝を倒したが、やがて秀吉が織田家を飲み込もうとしていることに気づき、関係はこじれていった。
1584年3月、信雄は、秀吉と通じたとして自分の家老3人を殺した。秀吉への手切れである。信雄は、信長の盟友で、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の一部を治める徳川家康を頼った。家康にとっては、信長の子を助けるという大義名分を得て、秀吉と対等に渡り合う機会だった。家康はさらに、紀伊の雑賀衆や根来衆、四国の長宗我部氏、北陸の佐々成政などと結んで、秀吉を囲もうとした。

戦いは尾張の北部で始まった。秀吉方についた池田恒興がまず犬山城を奪い、恒興の娘婿の森長可が羽黒に進んだが、家康の家臣の酒井忠次らに破られた。家康は、かつて信長が美濃攻めのために城を置いた小牧山に入り、堀と土塁で固めた。秀吉は大軍で犬山と楽田に陣を敷いた。兵の数は、秀吉方がおよそ10万、家康と信雄の方が1万6000から3万ほどだったと言われる。両軍は砦を築いて向かい合い、どちらも手を出せないまま日が過ぎた。
膠着を破るため、池田恒興は、家康の本拠の三河の岡崎を突く策を秀吉に進言したとされる。4月、秀吉の甥の三好秀次(のちの豊臣秀次)を大将に、池田恒興、森長可、堀秀政ら2万ほどが、東へ大きく回り込んで南下した。この動きは家康に察知された。家康は小牧山を出て、夜のうちにひそかに追った。

4月9日の朝、家康方の先手は、白山林で休んでいた秀次の隊を背後から襲った。秀次の隊は崩れ、秀次は馬を失って辛うじて逃れた。堀秀政は踏みとどまって家康方の先手を押し返したが、家康の本隊が近づくのを見て兵を引いた。その先で岩崎城を落として進んでいた池田恒興と森長可は、引き返して長久手で家康の本隊とぶつかった。激しい戦いの末、恒興とその長男の元助、森長可が討ち死にした。知らせを受けた秀吉は大軍を率いて駆けつけたが、家康はすでに小牧山へ戻った後だった。
長久手の勝利で、家康の武名は大いに上がった。しかし戦い全体では、秀吉の優位は動かなかった。秀吉は戦場での決着をあきらめ、信雄の領地である伊勢や伊賀の城を次々に攻め落とした。追い詰められた信雄は、11月、家康に相談することなく、秀吉と単独で講和した。戦う名分を失った家康も兵を引くほかなく、次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として大坂へ送った。事実上の人質だった。

秀吉はその後、1585年に関白となり、紀伊と四国、越中を平定していく。家康を臣従させることは、秀吉にとって残された大きな課題だった。1586年、秀吉は妹の朝日姫を、夫と離縁させたうえで家康の正室として嫁がせた。朝日姫は40代の半ばだった。それでも家康が上洛しないと見ると、秀吉は母の大政所を、朝日姫の見舞いという名目で岡崎に送った。人質である。10月、家康はついに大坂に上り、大坂城で秀吉に臣下の礼をとった。前夜、秀吉がひそかに家康の宿を訪れ、明日は皆の前で頭を下げてくれと頼んだ、という話が後の記録に伝えられている。
小牧・長久手の戦いは、秀吉が戦場で勝てなかった唯一の大きな戦いとされる。秀吉は家康を武力で倒すことができず、家康は秀吉の下で大きな領地を保ったまま、豊臣政権の最大の大名になった。秀吉は1590年に全国を統一し(秀吉の天下統一)、家康を関東へ移す。秀吉が死んだ2年後の1600年、家康は関ヶ原の戦いで天下の主導権を握ることになる。